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== 石名坂の合戦、金沢の合戦 ==
その頃、[[諸生党]]との争いを避けたい[[松平頼徳]]は対応に苦慮し、多賀郡[[助川海防城|助川城]]の城主・[[山野辺義芸]]に応援を求めていた。応ずるべきか否か、[[助川海防城|助川城]]内ではなかなか意見がまとまらなかった。しかしが、再三の要請を受け、8月23日、[[山野辺義芸]]はついに決起。8月23日、100余人を率いて[[水戸城]]へ向かった。これは[[市川弘美|市川三左衛門]]の元、[[水戸城]]で人質同然となっていた[[徳川斉昭]]夫人らを解放するためでもあった。ところが、市川ら[[諸生党]]は那珂川の渡しを押しつぶし、山野辺軍の入城も拒絶。山野辺家の家老・[[大江勝永|寒河江忠左衛門]]が説得するも受け入れず、逆に山野辺軍への攻撃を開始した<ref>鈴木 彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』(崑書房、1978)</ref>。
 
この時、[[大江勝永|寒河江忠左衛門]]の長男・寒河江延之進が馬で駆けつけ、「寺門登一郎ら[[諸生党]]が[[助川海防城|助川城]]に迫りつつある」と告げたため、山野辺軍は急遽反転<ref>神永敏子『幕末水戸藩士の眠る丘』(風濤社、1997)</ref>。8月24日、石神外宿まで引き返してきたところで、頼徳軍に参加していた150人余と合流した<ref>『助川海防城と陣屋・番所・台場』(助川海防城跡保全会、2007)</ref>。