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SOARER909 (会話 | 投稿記録)
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=== 関東大震災後の天譴論 ===
[[関東大震災]]後の日本の言論界には、世の風潮が利己的で傲慢になったために、天が罰として自然災害を起こして警鐘を鳴らしたと受け止めるべきであるという、「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった<ref>[[筒井清忠]]『帝都復興の時代:関東大震災以後』(中央公論新社<[[中公新書]]>、2011年、{{ISBN2|9784121100030}})pp.114-120</ref>。「天譴論」は腐敗した[[ブルジョワジー|ブルジョア]]や近代産業文明への批判と平等主義や自然回帰への賛美の思潮ともつながり、一種の流行語ともなった。皆が口にするに至って、かえって不自然さや偽善性を指摘する者も現れ、最初の主唱者渋沢も「天譴だという人は、本当にこれを天譴と思っているのでは無いかも知れませぬ」と苦言を呈するほどになった。
 
=== 第二の故郷 ===
 
栄一は幼少期から青年期にかけて、父子ともに上州及び内山峠を越え信州まで製品の藍玉を売り歩き、原料の藍葉の仕入れ調達を行っていた。後に長野県の製糸業集積地であった現在の長野県[[小諸市|小諸]]・[[上田市|上田]]・[[長野市|長野]]・[[松本市|松本]]・[[岡谷市|岡谷]]・[[上諏訪町|上諏訪]]の各地を訪れ講演を行っている。その最初の地、[[北佐久郡]][[小諸町]]にて次のように述べられた。
{{quotation|私はこの信濃の御国には古い因みを持って居りまして、当小諸町にも青年の頃に度々参りましたことがございます。そういう昔訪れた地というよりも、むしろ第二の故郷というほどに思うのであります。|男爵渋沢栄一君講演、大正6年5月15日 小諸小学校於<ref>https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK570292k_text</ref>}}</p>
 
== 没後のエピソード ==