「沖縄県女子師範学校」の版間の差分

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沖縄県女子師範学校と[[沖縄県立第一高等女学校]]は、[[沖縄県営鉄道]](ケービン鉄道)の安里駅近く、現在の那覇市安里の[[栄町市場]]から[[那覇市立大道小学校|大道小学校]]、[[那覇市立真和志中学校|真和志中学校]]に至るまでの広大な敷地を有し、約8,000坪の敷地には講堂、寄宿舎、体育館、図書館、農場、同窓会館、また当時沖縄で唯一のプールもあった<ref name=":0">{{Cite web |title=【公式】ひめゆり平和祈念資料館 / [OFFICIAL] HIMEYURI PEACE MUSEUM |url=https://web.archive.org/web/20210812055636/http://www.himeyuri.or.jp/JP/intro.html |website=web.archive.org |date=2021-08-12 |access-date=2024-03-06}}</ref>。師範学校の[[校門|正門]]には[[相思樹]]の並木通があった。
 
沖縄県女子師範学校は「女師」<ref>{{Cite web|title=沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊「ひめゆりの塔」と「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝1)|url=https://senseki-kikou.net/?p=51648|website=戦跡紀行ネット~近代史跡・戦跡紀行~|date=2025-08-30|access-date=2025-09-11|language=ja|last=Date-SKN}}</ref>、[[沖縄県立第一高等女学校]]は「一高女」とよばれた。それぞれ両校の校友会誌は、師範は「白百合」という名で、一高女は「乙姫」という名で発行されていたが、1916年両校が併置された際、校友会誌も統合され、「姫百合」と名づけられた<ref name=":0" />。合同の[[校歌]]も二校の生徒が「白百合」と「乙姫」として歌われていた。ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのは[[戦後]]だという。
 
師範学校では学年ごとにおかっぱから三つ編まで[[ヘアスタイル|髪型]]が決められ、また当時の女学生の憧れのまとであった[[セーラー服]]が採用されていたが、戦争が始まる1941年には、物資不足のためヘチマ襟にかわった。また英語の授業もなくなった<ref>{{Cite web |title=ひめゆりの学校 |url=https://himeyuri-and-hawaii.com/chapter1/p1/ |website=特別展ひめゆりとハワイ Himeyuri and Hawaii |access-date=2024-03-04 |language=jp}}</ref>。