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*[[岡田英弘]]は、仲哀天皇が后の神功皇后とともに、志賀[[高穴穂宮]]から[[紀伊国|紀伊]]徳勒津宮、[[敦賀郡|角鹿]][[氣比神宮|笥飯宮]]、[[長門国|穴門]][[忌宮神社|豊浦宮]]、[[筑紫国|筑紫]][[香椎宮|橿日宮]]と、海港を点々として海上を彷徨ってばかりで陸上に定住し行政を行ってない事から非実在としている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=最新古代史論|publisher=学研|year=|page=62|isbn=|ref=}}</ref>。
*仲哀天皇が即位したとされる志賀[[高穴穂宮]]は考古学的な遺跡は全く発見されておらず、仲哀天皇自体の実在も疑われる<ref>『近江・大津になぜ都は営まれたのか?』大津市歴史博物館 P53およびP59</ref>。
 
上記の説には以下の疑問点及び反論がある。
 
* 朝廷の記紀編纂とは無関係で成立したと見られる諸[[豪族]]の系図には、倭建命、神功皇后と共に仲哀天皇治世での活動をした人物の記事が見えている<ref>{{Cite book|和書|author=[[宝賀寿男]]|chapter=第四章 神武天皇が活動した時代|title=「神武東征」の原像|publisher=青垣出版|year=2006|page=200|isbn=|ref=}}</ref>。
* 古代より「若帯部」などの存在が確認されており、「タラシ」が古い歴史を持っていたことを考慮すると、これら諸天皇の称号が必ずしも後世の造作とはいえず、7世紀に成立したとする根拠は何ら存在しないともされる。また後世の天皇の諱号と類似するだけで非実在を唱えるのは、大変な論理の飛躍であり非実在の根拠にはならないとの意見もある<ref>{{Cite book|和書|author=宝賀寿男|chapter=第一章 戦後の神武天皇|title=「神武東征」の原像|publisher=青垣出版|year=2006|page=|isbn=|ref=}}</ref>。
 
=== 系譜 ===