「菊池大麓」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (gos.but.jp) (Botによる編集) |
編集の要約なし |
||
7行目:
|fullname = <!--全名-->
|other_names = <!--別名-->
|birth_date = {{生年月日と年齢|1855|3|17|死去}}<br />([[安政]]2年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]])
|birth_place = {{JPN1603}}
|death_date = {{死亡年月日と没年齢|1855|3|17|1917|8|19}}
|death_place = {{Flagicon|JPN1889}} [[大日本帝国|日本]]
|nationality = {{
|alma_mater = [[ケンブリッジ大学]]セント・ジョンズ・カレッジ
|spouse = <!--配偶者-->
35行目:
{{政治家
|人名 = 菊池 大麓
|国略称 = {{
|所属政党 =
|国旗 =
|職名 = 第16代[[文部大臣]]
|就任日 = [[1901年]][[6月2日]]
|退任日 = [[1903年]][[7月17日]]
|内閣 = [[第1次桂内閣]]
|国旗2 =
|職名2 = [[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]
|就任日2 = [[1912年]][[5月8日]]
|退任日2 = 1917年8月19日
|国旗3 =
|職名3 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
|選挙区3 = ([[貴族院 (日本)#勅任議員|勅選議員]])
52行目:
|退任日3 = 1912年[[5月15日]]
}}
'''菊池 大麓'''(きくち だいろく、[[1855年]][[3月17日]]
東京帝国大学([[東京大学]]の前身)[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理科大学]]長・総長、[[事務次官等の一覧#文部事務次官(文部次官)|文部次官]]・[[文部大臣|大臣]]、[[学習院#歴代学習院長一覧|学習院長]]、京都帝国大学([[京都大学]]の前身)総長、[[帝国学士院#歴代院長|帝国学士院院長]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]を歴任した。
== 生涯 ==
[[蘭学者]]の[[箕作秋坪]]とつね夫妻の次男として[[江戸]]天神下(現
[[ファイル:Masakazu Toyama at Shanghai in O. S. November 1, 1866 (19 years old).jpg|サムネイル|慶応2年11月1日英国留学の為め出発の途中上海にて。後列向って右より[[外山正一|外山捨八]](正一)、[[林董|林桃三郎]](董)、福沢英之助、杉徳三郎、億川一郎、安井真八郎、岩佐源二。前列向って右より市川盛三郎、箕作奎吾、成瀬錠五郎、[[中村正直|中村敬輔]](正直)、レベレンド・ウィリヤム・ロイド、[[川路寛堂|川路太郎]](寛堂)、伊東昌之助(岡保義)。最前列箕作大六(菊池大麓)。]]
[[蕃書調所]]([[東京大学]]の前身)で英語を学び、1867年([[慶応]]3年)に幕府派遣で、1870年([[明治]]3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。2度目の留学では[[ケンブリッジ大学]]セント・ジョンズ・カレッジで[[数学]]と[[物理学]]を学び学位を取得した。[[ケンブリッジ大学]]を卒業した初めての日本人留学生となった<ref>[http://www.diverse.cam.ac.uk/stories/kikuchi/ Kikuchi Dairoku: the first Japanese graduate.]</ref>。帰国後の1877年(明治10年)、[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]][[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理学部]]教授となり、近代数学を初めて日本にもたらし、理学部における数学教育は[[お雇い外国人|外国人教師]]によるものでなくなる<ref name="kouda" >{{Cite journal|和書|author=公田藏 |date=2012-04 |url=https://hdl.handle.net/2433/172764 |title=近代日本における函数の概念とそれに関連したことがらの受容と普及 (数学史の研究) |journal=数理解析研究所講究録 |ISSN=1880-2818 |publisher=京都大学数理解析研究所 |volume=1787 |pages=265-279 |hdl=2433/172764 |CRID=1050282810743929856}}</ref>。同大学総長、[[学校法人学習院|学習院]]院長、[[京都大学|京都帝国大学]]総長、[[理化学研究所]]初代所長等を歴任し、1902年(明治35年)には[[男爵]]を授爵された。[[福澤諭吉]]とは知己の仲で、1874年(明治6年)には福澤に招聘されて[[明六社]]に参加、福澤がその後に設立した[[交詢社]]にも発足時常議員としてもその名を連ねている。1889年(明治22年)には[[帝国学士院]]の前身・[[東京学士会院]]会員に選任された。
67行目:
1917年(大正6年)7月下旬より避暑で茅ヶ崎の別荘を訪れていたが、同年8月19日に新聞を読んでいる最中に[[脳溢血]]を起こし、医師による応急治療を受けたがそのまま死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)101頁</ref>。墓所は[[谷中霊園]]。
== 逸話 ==
[[ケンブリッジ大学]]時代は[[数学]]で常に首席を占めていたため、他のイギリス人学生から嫉視されていた。あるとき大麓が風邪をこじらせて入院すると、イギリス人学生たちは示し合わせて大麓が欠席中の講義ノートを彼に貸さないことにした。それによっていつも2番目の成績だったブラウンという秀才を首席に押し出そうという企みだったが、当のブラウンは病院の大麓を毎日見舞って清書した当日のノートを彼に渡していたため、結局大麓の首位は動かなかった。大麓はその後ことあるごとに「ブラウンの高潔なイギリス魂ほど私を深く感動させたものはない」と当時を回想していたという<ref>[[本田靖春]]著 『現代家系論』 [[文藝春秋]]、1973年9月、40頁。</ref>。
73行目:
== 家族 ==
*父
*妻
*長女
*次女
*三女
*四女
*五女
*長男 - 夭折
*次男
*三男
*四男
*弟に[[動物学|動物学者]]の[[箕作佳吉]]と[[歴史家]]の[[箕作元八]]。
114行目:
|-
|[[1892年]](明治25年)[[6月29日]]
|[[ファイル:JPN Zuiho-sho (WW2) 4Class BAR.svg|50px]]
|[[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』第2701号「叙任及辞令」1892年6月30日。</ref>
|
124行目:
|-
|[[1901年]](明治34年)[[12月27日]]
|[[ファイル:JPN Zuiho-sho (WW2) 2Class BAR.svg|50px]]
|[[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。</ref>
|
134行目:
|-
|[[1913年]](大正2年)12月27日
|[[ファイル:JPN Zuiho-sho (WW2) 1Class BAR.svg|50px]]
|[[瑞宝大綬章|勲一等瑞宝章]]<ref>『官報』第427号「叙任及辞令」1913年12月29日。</ref>
|
233行目:
{{S-off}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|
| years = 1915年 - 1917年
| before = [[加藤弘之]]
239行目:
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|
| years = 1913年 - 1917年
| before = [[真野文二]]
246行目:
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|
| years = 1901年
| before = ''(新設)''
252行目:
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|
| years = 1893年 - 1901年
| before = [[加藤弘之]]
258行目:
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|
| years = 1897年 - 1898年
| before = [[都筑馨六]]
271行目:
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|
| years = 1886年 - 1893年<br />''東京大学理学部長<br />1881年 - 1886年''
| before = ''(新設)''
277行目:
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|
| years = 1886年<br />''東京大学工芸学部長心得<br />1885年 - 1886年''
| before = ''(新設)''
| |||