削除された内容 追加された内容
99行目:
*** [[9月2日]] - 日本国政府が[[日本の降伏文書|降伏文書]]に調印、[[大東亜戦争]]・[[第二次世界大戦]]終結([[日本の降伏|日本国の敗戦]])。[[連合国軍占領下の日本|連合国軍占領下]]により[[日本国]]の[[主権]]が停止<ref>『占領下の東京』佐藤洋一 p,84(河出書房新社)2006年</ref>。
*** [[9月5日]] - 日本国政府の[[日本の降伏文書|降伏文書]]調印に基づき、陸軍士官学校が[[進駐軍|米軍]]に接収され[[キャンプ座間]]となる{{efn|『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行p82【米駐留軍の陸士接収】には「昭和20年9月5日、米陸軍第一騎兵師団第四平站廠として米軍進駐」とある。}}。
** [[1946年]]月日不詳 - 米軍の軍用道路として相武台新道工事着工{{efn|[[東京都区部|東京]][[丸の内]]の[[第一生命館]]を[[接収]]した[[GHQ|連合国軍最高司令官総司令部本部]]から[[キャンプ座間]]・[[相模原住宅地区|上鶴間米軍ハウス]]ほか[[進駐軍|米軍]]施設への軍用道路。『座間の語り伝え 村制編1村の起こり』p69。「米軍によるたいへんな工事であった。[[学校法人大和学園 (神奈川県)|大和学園]]の[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]を越えるには遮断機や警報機がない「第4種踏切」で昭和28年12月に山王原跨線橋が出来た。相武台の[[小田原線|小田急線]]を跨ぐところには元の古い農道に簡易な陸橋が着工前から架けてありそれを暫く供用し昭和28年10月【相武橋(そうぶばし)】(相武台跨線橋)として新設整備された。」※原文ママ「行政道路(座間街道)の工事」『大和市史研究 第9号 鶴間新町のルーツを探る —座談会—(岩崎房吉・小松一男 ・杉崎貴重・関水義治・高橋治作・高橋冨蔵・市史編さん事務局)…昭和58年3月発行』p22。}}{{efn|『小松原開拓百年史』p21に「座間日産工場の前の道路は昭和21年に[[進駐軍]]が作った道路である。進駐軍にとっては[[厚木基地]]と並んで座間キャンプは重要な基地だったようだ。本国から着いた荷物を[[横須賀港]]から座間キャンプまで運搬するのに相模大野の谷口の交差点を廻らければならなかったので、[[国道16号線|16号線]]の[[目黒町|目黒]]の交差点から相武台の東の端まで斜めに通したのであった。※原文ママ」}}。
*** [[1953年]]
**** 10月 - 【相武橋(そうぶばし)】(相武台跨線橋)完成{{efn|2025年9月17日、橋梁に刻印確認。}}。