「京の大仏」の版間の差分
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MAYUTO RYOUTA (会話 | 投稿記録) |
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大仏殿の周囲は、道に沿った高い場所で、一番前の広場は、高さに合わせて、ほとんど二間ばかり、四角の大きな石で方形に囲まれていた。また寺を取り巻いている回廊からは外は見えないが、内側は開いている。その屋根は約三間の高さで、どの側も長さいっぱいに二十五本の丸い柱と、横は全て三本ずつ並んだ柱で支えられている。入口の門は高い支柱と立派な二重屋根を持った建物である。その両側にある高さ一間の台座の上に、ただひらひらする布を腰に巻き付けた、黒く太った裸の、獅子のような姿をした身長四間もある勇士の立像 [金剛力士像] が見えた。それらの一つ一つにはそれぞれ特別な意味があるが、名匠は肢体の部分の釣合を大変上手く造り上げていた。この門のすぐ向かいの敷地の真ん中に寺の建物 [大仏殿] が立っていた。それは高さでは京都の町にある他の全ての建物をしのいでいたし、それだけでなく私がこれまでに日本中で見た最高のものであった。この建物には二重の屋根があり、92本の柱を用いて建てられている。第一の屋根の下まで続いている細長い幾つかの扉があって、ほとんどどこからでも出入りできる。内部は一番上の屋根の所まで吹抜になっていて、その屋根はたくさんの梁を変わったやり方で繋ぎ合わせて固定してあり、梁は朱色に塗ってあった。高くて上の方は光が差さないので、ほとんど真っ暗である。寺の床は、これまでの普通の方法とは異なって、四角形の石が敷き詰めてあったが、支柱 [金剛柵] はこれに反して木製で、何本かの角材を寄せ合わせ、太さは二間半あり、他の全ての木部と同様に朱色に塗ってあった。信じがたいくらいの大きさで全身金張りした一体の仏像の他には、内部に何一つ飾りはなかった。非常に大きく平らな手のひらには、畳三枚が敷けるほどである。この仏像は牛のような長い耳をしていて、縮れ毛で額の前に黄金を塗っていないほくろ [白毫] があり、頭には黄金の冠 [他の文献記録に大仏の冠の記述はないので詳細不明] をかぶっていたが、それは第一の屋根の上方の窓 [観相窓] を通して見ることができた。肩口はあらわで、胸と腹はひらひらする布で覆うようになっていた。右手は少し高く挙げ、左手は体の前で開いていて、インド風に蓮の花の中に座っていた。この蓮の花は、葉と一緒に地中から伸びている石膏細工のもう一つの花に囲まれていたが、両方とも床から二間ばかり高くなっていた。背後は丈の高い長方形の葉型の装飾 [光背] で覆われていて、その幅は四本の柱に渡っていた。光背には、蓮の花に座っている人間の形をした小さい仏像が数個付いていた。しかし大仏そのものは非常に肩幅が広く、肩が一本の柱からもう一本の柱まで及んでいて、我々が測った所では五間はあった。八角形の木の格子 [金剛柵] が、蓮の花や台座の回りを囲んでいたので、真ん中の所では四本の柱が省かれていた。一重の屋根のあるもう一つの門を出て、すぐそばにあった広場に出たが、そこで驚くばかりの大きな鐘 [国家安康の鐘] を見せられた。その鐘は低い木の櫓 [鐘楼] の中に架かっていて、厚さはたっぷり一指尺、高さは番所役人の持つ槍ほどあり、しかも周囲は21フィートもあった。<ref>ケンペル著・斎藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社、1977年、228-231頁。</ref>}}
ケンペルの遺稿をもとに編さんされた『[[日本誌]]』に、2代目大仏殿の絵が掲載されるほか、3代目大仏の全身を描いたケンペルのスケッチも現存しており、[[大英博物館]]に所蔵されている<ref name="#19" />。ケンペルの描いた3代目大仏のスケッチについて、彼の遺した手稿や収集品は大部分が
方広寺大仏は、江戸時代中頃には人気の観光地となった{{Sfn|村山|2003|p=149}}。天下泰平の世が続き、(現代
なお[[妙法院]]に残る史料からは、
上記が[[朝鮮通信使]]接待のために、
[[File:todaiji tatejiwariitazu.jpg|thumb|220px|{{Bracket|参考}} 東大寺大仏殿内部に掲示される「東大寺大仏殿建地割板図」]]
戦国時代に兵火で損壊していた[[東大寺]]大仏も江戸時代中期に再建が行われた。[[貞享]]元年([[1685年]])、[[公慶]]は
2代目東大寺大仏殿の焼失後に「2代目東大寺大仏殿焼失→初代方広寺大仏殿造立・焼失→2代目方広寺大仏殿造立→3代目東大寺大仏殿造立」と年数がさほど空くことなく、大仏殿が日本に存在し続けていたことは、大仏殿造立の技法が継承される上で好事となった。また単に技法が継承されるだけでなく、新たな技法の確立や建築意匠の改良もなされ、3代目東大寺大仏殿の柱材について、寄木材(鉄輪で固定した集成材)となっているが、この技法は2代目方広寺大仏殿で確立されたものとされ<ref >大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年</ref>、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる。
[[宝永]]6年([[1709年]])から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良([[東大寺]])に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代中期の国学者[[本居宣長]]は、双方の大仏を実見しており、感想を日記に残している(在京日記)。方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也<ref>『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.106</ref>」、東大寺大仏・大仏殿については「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う<ref name="#21">『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.136</ref>」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし<ref name="#21"/>[東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、[[視覚効果]]で高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也<ref name="#21"/>」としている。また両者の相違点として、東大寺には大仏の脇に脇侍が安置されている点を挙げており、方広寺大仏には脇侍はなかったようである。
▲(新暦では8月12日)の夜に大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した{{Sfn|村山|2003|p=157}}。火災による大仏殿からの火の粉で類焼も発生し、仁王門・回廊も焼失した{{Sfn|村山|2003|p=157}}。なお「国家安康」の梵鐘や、方広寺境内に組み込まれていた[[三十三間堂]]は類焼を免れた。大仏殿はその巨大さゆえに落雷の被害に遭う確率が高く、直近では[[安永]]4年(1775年)8月11日に大仏殿北西隅の屋根に落雷があり、枡形([[組物]])より出火したが、この時は消火に成功していた{{Sfn|村山|2003|p=154}}。歴史学者で[[妙法院]]史料研究者の[[村山修一]]は、妙法院に残る大仏殿及びその周辺への落雷の記録は全て大仏殿の北西部に集中しているが([[享保]]18年(1733年)7月9日に大仏殿北西隅の屋根に落雷・[[宝暦]]5年(1755年)6月[[晦日]]に大仏殿北西隅の松の木に落雷)、その原因について大仏殿北西隅近辺に松の巨木があり、それが雷を誘雷していたのではないかとしている{{Sfn|村山|2003|pp=149・154・157}}。
先述の方広寺大火について、方広寺を管理する
方広寺大仏・大仏殿の、
方広寺焼失時の出来事の記録については、先述のように『
なお方広寺大火の原因について、先述の有事の際の防火管理体制の不備のほか、7月1日の夜は新月であったことも、消火活動をするにあたり不利になったと考えられる。旧暦は月の満ち欠けを基準とする[[太陰太陽暦]]であり、[[新月]]を1日(朔日)とする。そのため火災の発生した[[寛政]]10年([[1798年]])7月1日の夜は新月であり、暗闇が消火活動の妨げになった可能性がある。
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[[長沢芦雪]]は『大仏殿炎上図(個人蔵)』と題される、方広寺大仏殿が炎上する様を描いた抽象的な絵を残している<ref>[[榊原悟]]『江戸の絵を愉しむ』2003年</ref>。落款に「即席漫写 芦雪」とあり、実際に方広寺大仏殿が焼け落ちゆくのを眺めながら、それを描いたとされる。
当時京都のランドマークになっていた大仏の焼失は、人びとに大きな衝撃を与えた。焼失後も往時の大仏に郷愁を覚える者が多く、[[横山華山]]作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年(1808年)に出版の京都の鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれている<ref name="野村2022"/><ref>[https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/karaku/karaku.html 花洛一覧図 <nowiki>[文化5年(1808)]</nowiki>] - 国立歴史民俗博物館</ref>。文久2年([[1862年]])刊行の東山名所図会も、大仏焼失後の刊行であるが、こちらも往時の方広寺大仏殿絵図があえて掲載されており、絵図中に「寛政中回禄の後、唯礎石のみ存るといへども、帝畿第一の壮観の廃れたるを慨歎に堪ず。故に旧図の侭を挙るなり。」との注記書がある。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな
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Engelbert Kaempfer.jpg|3代目大仏を記録した[[エンゲルベルト・ケンペル]]の肖像画。
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