「戸田宗光」の版間の差分
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知多・渥美の両半島を股にかけ、[[三河湾]]の[[制海権]]をほぼ確立させた宗光は、さらなる版図の拡大を目論み、渥美から北進する政策を採る。
明応2年([[1493年]])、手始めに[[渥美郡]]北端の仁連木([[豊橋市]]の[[朝倉川]]南岸。[[朝倉川]]北岸は[[八名郡]])に移り、[[二連木城]](現在、大口公園)を築城し、拠点とする。[[遠江国|遠江]]との国境に近い[[船形山城]]に対抗する意味合いが含まれている、ともいう
それまでの田原城は、嫡男の[[戸田憲光|憲光]]に委ねている。やがて宗光は[[渥美半島]]統一の大業を成した。
宗光が打ち込んだ二連木城という楔によって、やがて東三河は新たな戦乱に巻き込まれるが、張本人の宗光が戦乱収束を見ることは無かった。永正5年([[1508年]])6月19日没。晩年、剃髪し全久と号していたため、菩提寺として'''全久院'''が創建されると、そこに葬られている。▼
▲その後、宗光が打ち込んだ二連木城という楔によって、
子孫は松平氏、[[織田氏]]、[[今川氏]]、松平氏の後身である[[徳川氏]]と従属先を転じ、譜代大名をはじめとし多くの武将・人物を輩出した。
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