「長崎市への原子爆弾投下」の版間の差分

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原爆は浦上地区の中央で爆発しこの地区を壊滅させた。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であった<ref>長崎市全体の家屋被害比率が広島市のそれより小さくみえるのはそのためである。このため[[香焼町]]など一部地域ではきのこ雲を見ているが直接的な被害を受けていない人間なども存在している。最終的に爆心地から3.4キロ離れた県庁付近まで延焼しているが、このあたりが火災発生地域のほぼ南端にあたる。貴重な建築物であった[[グラバー|グラバー邸]]や[[大浦天主堂]]等は被害を免れた。国宝であった広島城等、貴重な文化財の殆どが破壊・消失した広島市とは対照的である。また、キリスト教徒が多い浦上が被災し、長崎の中心街に爆発による直接被害がなかったことが宗教的、地理的な感情にもむすびつき、地域間の温度差を助長する結果となったとの指摘もある。</ref>。特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張等で広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したと云う事例(二重被爆)も確認されている<ref>1950年の被爆生存者資料によれば10名。</ref>。
 
浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上天主堂でミサを行っていた神父・信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出た(主に[[イギリス]]・[[オランダ]]人兵士)と云われている<ref>幸運にも生還したオランダ人捕虜[[レネ・シェーファー]]氏は、後に『長崎被爆記』と題した手記を出版している</ref>。
 
== 被爆後の救援 ==