「京都大学西部講堂」の版間の差分
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1972年1月、府立体育館で行われた「MOJO」では、[[ザ・モップス]]、[[カルメン・マキ]]、[[頭脳警察]]ら、西部講堂ではぐくまれた奔流が街に繰り出した格好となった。おなじころ、京大経済学部助手の[[竹本信弘]]がデッチ上げの容疑で全国指名手配になった。竹本関連でガサ入れになったスナックのいくつかから、この「MOJO」の前売券が見つかった。コンサートは、公安警察が会場の府立体育館を囲み、緊迫した雰囲気のなかで行われた。
1972年8月16日は、京大農学部グラウンドから、如意ヶ岳の大きな「[[五山送り火|大文字]]」が見える日。そのグラウンドで行われたコンサートが、「[[三里塚闘争|三里塚空港粉砕]]」をスローガンにした「[[幻野祭]]」である。三里塚の野火と、京都の大文字の送り火をつなぐコンセプトで、[[ウエスト・ロード・ブルース・バンド]]、[[頭脳警察]]、[[豊田勇蔵]]らが出演した。
この京都の幻野祭に連動して、奇抜なペイントが西部講堂に出現した。炎天下に十数人の男たちが数日間かけて、西部講堂の大屋根をライトブルーに塗り上げたのである。青い空に純白の雲が浮かび、さらに赤い[[オリオン座]]の三ツ星が大屋根に光を放った。そもそもは、美大生によるスーパー・リアリスムのデザインで、三ツ星を模様として選択したものに過ぎなかったが、[[日本共産党]]がこのペイントを見て「日本赤軍の三人の兵士だと指摘」し、物議をかもすことになった。日本共産党の指摘に対し、西部講堂のメンバーらは逆に開き直って、「己の生きるシルシとして、3ツの赤い星を永遠の刻印として刻むことにした」。幻野祭の当日、テルアビブの銃撃戦で亡くなった[[日本赤軍]]の京大生([[奥平剛士]]、[[安田安之]]ら)らの追悼集会を西部構内で行い、西部講堂から農学部グラウンドまでをつなぐ、一大ページェント「幻野祭」を実現したのであった。
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