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latin=Moon Sun-myung|
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'''文 鮮明'''(ぶん せんめい /{{Lang|ko|문선명}}、ムン・ソンミョン/ Sun-Myung Moon) {{生年月日と年齢|1920|21|256}}(陰暦)は、[[朝鮮民族|韓国人]]の[[宗教家]]。[[世界基督教統一神霊協会]]―いわゆる 統一教会(統一協会)の創立者であり[[教祖]]。<!-- 正確には北朝鮮の生まれではありません(ノート参照) →北朝鮮の生まれであり -->[[朝鮮]]の[[平安北道]] 定州郡徳彦面上思里(現在は[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]統治区域)出身。戦前は[[朝鮮]]の日本からの独立を目指す[[反日|抗日]]運動の活動家でもあったと称している<ref name="kaminodaibensya">[[田井友季子]] 『[http://www.chojin.com/history/taiyukiko.htm 『神の代辯者』] (世界日報社 [[1995年]]2月5日)</ref>。
幼少期の名前は'''文龍明'''(ぶん りゅうめい/문용명、ムン・ヨンミョン)
本名は'''文龍明'''(ぶん りゅうめい/문용명、ムン・ヨンミョン、)<ref>「[[ドラゴン|龍]]」は『[[聖書]]』において、[[サタン]]([[悪魔]])の象徴として使われていることもあり、文鮮明は宗教活動を行うに当たり、“鮮明”と名乗るようになった(''[[ドラゴン#神話学におけるドラゴン]]を参照'')</ref>(<ref name="as1">[[浅見定雄]]『統一協会 = 原理運動 その見極めかたと対策』([[日本基督教団]]出版局、[[1987年]]3月20日)</ref>、p68)(<ref name="wagatiti">[[洪蘭淑]](著) [[林四郎]](訳) 『わが父 文鮮明の正体』([[文藝春秋]] [[1998年]]11月25日)</ref>、p25)。
 
== 概略 ==
文鮮明は自らを[[聖書]]に[[預言]]された[[再臨]]の[[イエス・キリスト]]([[メシア]])であると自称している。全[[ヒト|人類]]の父母の立場にあるということから信者から「真の父母」とも呼ばれる。最近は「天地人父母」、「平和の王」、「根本先祖」という言い方も用いられるようになった。信者は文鮮明を、「お父様」、「真のお父様」、「アボジ」(お父さん)、「アボニム」(お父様)などと呼ぶ。妻の[[韓鶴子]](ハン・ハクジャ)も含めて言うときは「真の父母様」、「真の御父母様」と呼ぶ。正式な名称は「天地人真の父母様」だとされる<ref>[http://www.uc-japan.org/info/inforeport.aspx?id=1&itm=2 文鮮明師、韓鶴子女史ご夫妻の正式呼称について]([http://www.uc-japan.org/ucfam.aspx 世界基督教統一神霊協会公式ウェブサイト]) </ref>。
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=== 少年時代 ===
* [[1920年]][[2月25日]]([[陰暦]]1月6日)、[[日本統治時代 (朝鮮)|日本統治時代]]の[[朝鮮]]・[[平安北道 (日本統治時代)|平安北道]]定州郡(チョンジュグン)徳彦面(トゴンミョン)上思里(サンサリ)2221番地で、文慶裕(ムン・ギョンユ)・金慶継(キム・ギョンゲ)夫妻の次男として生まれる<ref name ="kaminodaibensya"/>。
: “'''龍明'''”(ヨンミョン/りゅうめい)と命名される(<small>「龍」は[[サタン]]を意味するため、それを隠すために自ら“'''鮮明'''”と改名(出典:ホン・ナンスク著『わが父 文鮮明の正体』)</small>)。上思里は家が15軒ほどしかない農村で、9軒が文氏姓であったため、「文村」と呼ばれたという。両親は農業を営み、兄が1人、姉が3人、弟妹が5人ほどいたとされる。また、一家は[[長老派教会]]系の熱心な[[キリスト教徒]]であったという。
* [[1926年]] 7歳から13歳まで、一般家庭の子供たちが通う[[書堂]]で、[[漢文]]を中心に学ぶ。
* [[1932年]] 12歳のころ、康村にある長老派教会に通う。
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=== 日本留学時代 ===
* 1941年(21歳)
: 4月 日本に[[留学]]。「[[創氏改名]]」制度を利用し、「江本」という日本姓を名乗る。[[淀橋区]][[戸塚町 (東京府)|戸塚町]]の三橋宅に下宿しながら、[[早稲田大学]]附属の[[早稲田大学芸術学校|早稲田高等工学校]]電気工学科に学ぶ(<small>戦後の[[学制改革]]で早稲田大学工業高等学校となるが、1968年に廃校となった。昔は“早稲田大学高等部を経て理工学部に学んだ”と称していたが、早大に高等部は存在しない。また、文鮮明はそのときの日本名を「山本朋成」としているが、後に同姓同名の別人がいることが判明した</small>)<ref name="as1"/>。
: [[東京]]留学中も抗日活動を継続し、[[大韓民国臨時政府]]の主席で、対日宣戦布告していた[[金九]]とも連絡を取り、地下活動を行う。要注意人物として、毎月[[高田馬場]]の[[戸塚警察署 (東京都)|戸塚警察署]]から呼び出しを受けたという。
: 他の朝鮮人留学生と共に[[第二次世界大戦]]中の日本による[[朝鮮]]の青年、学徒への[[徴兵制度|徴兵]]に対する抗議集会を行う。