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豊臣政権の確立まで: 越後ではなく越前
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===豊臣政権の確立まで===
{{Main|豊臣政権}}
しかし秀吉は自身が政権を奪取することを狙い、丹羽長秀、[[堀秀政]]、[[長谷川秀一]]などを味方にし、信孝と信雄の不仲につけこんで信雄と手を組んだ。また、[[羽柴秀勝]]を喪主として京都で織田信長の葬儀を行い、信雄・信孝兄弟を刺激した。秀吉は柴田勝家が領国の越に帰国し、雪で動けなくなった時期を狙い、安土城修復後も信孝が三法師を岐阜に止めた事を名分に信孝を攻撃。三法師成人までの間の織田家家督代行を織田信雄に委ねることを認めさせた。さらに[[賤ヶ岳の戦い]]で柴田勝家を倒し、秀吉の権力が強化されていった。家督代行となった織田信雄が安土城に入り城下に法令を施行し、[[前田玄以]]を京都所司代に任用するなど織田政権を動かし天下人と認識されるまでになった<ref name="fujita2009">[[藤田達生]]「小牧・長久手の戦いと羽柴政権」2009年</ref>。
 
この織田家家督代行の織田信雄と[[羽柴秀吉]]が対立。[[徳川家康]]と組んだ信雄は[[小牧・長久手の戦い]]で勝利するが、戦闘を継続できずに和睦し、織田政権は実質的に秀吉の傀儡政権となった。その後、秀吉が関白になり織田政権は吸収して豊臣政権を樹立した。豊臣政権では織田信雄、[[織田秀信]]が領土・官位等で優遇を受けたが一大名に転落した。