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== 歴史 ==
[[明治維新]]以来、以前の[[庄内藩]]の農政の影響もあって、山形県庄内地方は他地域では類を見ないほど民間での米に対する探究心は旺盛であった。そのような中、山形県大和村の小出新田集落(現:[[庄内町]])の篤農で、寺子屋程度の教養以外はすべて独学で農業を学んだ阿部亀治(あべ・かめじ:[[1868年]]-[[1928年]])<ref>亀家<small>かめはうす</small> - [http://www.navishonai.jp/kamehouse/top.html 「亀ノ尾」創選者 阿部亀治]</ref>が、[[1893年]](明治26年)は、冷害の年に立谷沢(現:[[庄内町]])の熊谷神社に参詣した際に、その近隣の田んぼで、在来品種「惣兵衛早生」の中で冷害にも耐えて実っている3本の穂を見出した。<br/>阿部は、その田の所有者から穂を譲ってもらい、それを[[種子]]として翌年から翌々年にかけて生育させた。この二年間は、稈丈が伸びすぎたり倒れたりしたため、妥当な収穫を得るに至らなかった。<br/>
[[1896年]](明治29年)に、水温が低い水口に植えたところ、多くは生育が不良であったが、1株だけ生育が良好な株があった。この株を抜穂選種し、作付けして足掛け三年の歳月を費やし収量を増やしたものが「亀ノ尾」である。
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