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西方 (会話 | 投稿記録)
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[[1864年]]夏、カシュガルで[[キルギス]]人の[[シディク・ベク]]が回民の[[金相印]]と蜂起した。翌[[1865年]]、[[コーカンド・ハン国]]の[[アリム・クリー]]は、[[ヤクブ・ベク]]率いる軍団を派遣し、カシュガル・ホージャ家の[[ブズルグ・ホージャ]]([[ワリー・ハン]]の弟)とともにカシュガルに入り、シディク・ベク軍を撃破した。ヤクブ・ベクは[[イェット・シェヘル・ハン国]]の建国を宣言するが、1865年4月下旬の[[ヤルカンド]]攻撃に失敗し、さらにクチャのラシッディーン・ホージャの軍に大敗した。ヤクブ・ベクは軍を整え、同年9月1日、清軍が守る[[カシュガル漢城]]を攻撃。カシュガル弁事大臣の[[奎英]]は自殺し、[[何歩雲]]ら投降した者はイスラム教への改宗を余儀なくされた。
 
[[1865年]]5月、[[タシケント]]に攻め込んできたロシア軍との戦いで[[コーカンド・ハン国]]のアリム・クリーは命を落とし、コーカンド・ハン国の兵はヤクブ・ベクに合流した。勢力が増大し、かつ[[イギリス]]や[[オスマン帝国|オスマン・トルコ]]からの援助を得<ref name="mano">間野英二「中央アジアの歴史」講談社,198頁</ref>ヤクブ・ベクはカシュガルとホータン、アクスを占領し、クチャ以外の天山南路を支配下に置く<ref name="kyo" />。こうして[[ヤクブ・ベク]]によって東トルキスタンの大半が清から離脱し、清朝領中央アジアの大半を支配するムスリム国家を樹立した<ref name="mano"/>。[[1867年]]、ヤクブ・ベクは[[バダウレト・ハン]]と名乗って名実ともに支配者となる。[[1867年5月にはクチャと[[コルラ市|コルラ]]を征服して天山南路を統一し、[[シャリーア]]に基づく統治を開始した。[[ブハラ・ハン国]]はヤクブ・ベクに対してアタリク・ガジ(信仰の守護者)の称号を与えた。
 
[[19世紀]]半ばには[[中央アジア]]をめぐって[[大英帝国]]と[[ロシア帝国]]との「[[グレート・ゲーム]]」が展開されており、すでにイギリスは[[1849年]]にはインド防衛のためにパンジャブ地方に進出し、ロシア帝国は1853年にシルダリヤに進出していた<ref name="nagasawa2005-100">{{harvnb|長澤|2005|p=100}}</ref>。ロシア帝国は、[[1865年]]3月に[[タシュケント]](現在の[[ウズベキスタン]]の首都)へ侵攻、[[1867年]]に[[トルキスタン総督府]]を設置し、[[中央アジア]]への進出基地とした。1868年にはサマルカンドを占領して[[ブハラ・ハン国]]を占領する。1868年3月には[[コーカンド・ハン国]]はロシアとの間に保護条約を締結した。[[1868年]]、[[イギリス]]は東トルキスタン地域をロシアとインドとの緩衝地帯にしようとして、特使を派遣しヤクブ・ベク政権を承認し、以後ヤクブ・ベクはイギリスから武器供給を受ける。[[1870年]]、ロシアもヤクブ・ベク政権を承認した。
 
 
[[1870年]]、ヤクブ・ベク軍は[[トゥルファン]]を攻略して東トルキスタン北部と[[河西回廊]]の連絡を断ち、[[白彦虎]]率いる陝西省・甘粛省の回民蜂起軍の残党を吸収し、[[1871年]]末までに妥明軍を破ってウルムチ・マナス・[[ピチャン県|ピチャン]]を占領した。そのため同年にはロシアがイリ地方への進駐に踏み切った。しかしヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、[[1872年]]には通商条約を締結<ref name="nagasawa2005-100" />して貿易を開始した<ref name="hei">『世界大百科事典 第28巻』平凡社、1988年。</ref>。[[1874年]]にはイギリスも通商条約<ref name="nagasawa2005-100"/>を結んで、大使を交換している<ref name="hei" />。さらにオスマン帝国の[[スルタン]]の[[アブデュルアズィズ]]から[[アミール]]に封ぜられ<ref name="hei" />、軍事教官の派遣を受けた。