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大興国は熙宗に寝殿小底権近侍局直長として仕えていた。この役職は寝室の世話係といった役職で、熙宗の就寝中に客や使者が訪れた時に応対し、状況や来客の立場を見て、寝殿に通すあるいは帰すのが主な任務で、小職ではあるが重要な役職であった。
 
[[皇統 (金)|皇統]]9年(1149年)[[海陵王|完顔亮]]の誕生日、熙宗は大興国を使者にして[[司馬光]]の画像や珍品財宝などを誕生日プレゼントとして贈った。完顔亮がそのプレゼントを[[悼平皇后|皇后の裴満氏]]に贈ったところ、熙宗の怒りを呼んでしまい、使者の大興国は杖刑100打の罰を受けた。熙宗殺逆の意図を固めた完顔亮は、成功させるには大興国の協力が不可欠と判断。大興国も無実なのに杖で打たれた事や、重臣や皇后が些細な事で殺される現状に危機感を抱いた事によって暗殺計画に荷担する。12月9日夜、大興国は寝殿の鍵を開けて完顔亮たちを招き入れた。熙宗は佩刀をベッドの上に置いていたのだが、大興国は佩刀をベッドの下に移したため、目覚めた熙宗は佩刀を手にすることができず為す術もなく切られた。
 
完顔亮(海陵王)が即位して皇帝になると、熙宗殺害に多大な功績を果たした大興国は広甯尹に就任、奴隷100口、玉帯などを賜わり金紫[[光禄大夫]]の位階を得た。その後も銭千万、黄金400両、銀千両、良馬4匹などの大量の財貨を賜わった。[[天徳 (金)|天徳]]4年(1152年)には崇義軍[[節度使]]となり、邦基の名を賜わって大邦基と名乗る。その後、武甯節度使河間尹となった。