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[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけて'''万沢郷'''(まんざわごう)と呼ばれており、[[冷泉為和]]の「為和卿集」にてその名前が登場する<ref name="kadokawa">[[角川日本地名大辞典]] 19.山梨県 「万沢郷(中世) 」より</ref>。[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])に[[甲斐国]]主の[[武田信虎]]が度々[[駿河国]]へ侵攻し、これに対し駿河国主の[[今川氏輝]]も挙兵し[[8月19日]]に万沢口で合戦が行われている。その後[[武田氏]]と[[今川氏]]が和睦し、さらに[[後北条氏]]が加わった[[甲相駿三国同盟]]が結ばれた後も国境の要衝として砦が設けられ、[[武田信玄]]が[[今川氏]]を滅ぼした後は[[駿州往還]]の整備と共に伝馬宿として'''万沢宿'''(まんざわしゅく)が設けられた<ref name="kadokawa" />。[[江戸時代]]になってからは万沢宿に[[口留番所]]が設けられたほか、南に「長峰三里」、北に「西行峠」と難所が続き、また[[富士川舟運]]の中継地でもあったことから多くの[[旅籠]]が建てられていた。[[宝永]]2年([[1705年]])の[[村明細帳]]によると家数199・人数631・馬64とあり、村内に商人10・酒造3・紺屋2がいた。[[文化 (元号)|文化]]初年([[1804年]] - [[1818年|18年]])の家数286・人数1,225とある。
 
[[1889年]]([[明治]]22年)の[[町村制]]執行により[[南巨摩郡]][[万沢村]]ととなる。1892(当時の村民は「萬澤村」とも書いた。)1892年([[明治]]25年)ではの統計では全戸数農業を営み、[[余業]]として養蚕30・商80・工40であった。[[1955年]]([[昭和]]30年)に北隣の[[富河村]]と合併して「南巨摩郡[[富沢町]]万沢」に、[[2003年]]([[平成]]15年)に南部町と富沢町の合併で「南巨摩郡南部町万沢」となり現在に至る。
 
== 交通 ==