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[[全日本プロレス]]を設立した[[ジャイアント馬場]]が国際プロレスに特別参戦する2日前の[[1972年]]11月27日、『ビッグ・ウインター・シリーズ』[[愛知県体育館]]大会で日本初の金網タッグデスマッチ、王者チームの[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]&[[クラッシャー・リソワスキー]]にストロング小林&グレート草津が挑戦するWWA世界タッグ王座戦が行われたが、ダウンした日本人組をリングに残したまま外国人組が金網から脱出して控室に戻るという不透明決着となる(結果は無効試合となり、王者チームの外国人組がタイトルを防衛)。これは、外国人側が前述のノックアウト・ルールを理解せず、アメリカで一般的なエスケープ・ルールと誤認していたためであるが<ref name="G15 75"/>、この決着に納得しない観客が暴動を起こすという事態に発展。国際プロレスは[[愛知県警察]]に出動を要請し、[[機動隊]]約100人が出動する騒ぎとなった(当日は番組収録も行われており、[[マイティ井上]]VSホセ・アローヨは12月3日に、[[ミスター珍]]VSダイドーネ・ムッソリーニは12月10日にそれぞれ録画中継された)。なお、同カードは3日後の11月30日、茨城県営スポーツセンターにてWWA世界タッグ選手権とIWA世界タッグ選手権とのダブルタイトルマッチとして再戦が行われている(この試合は金網デスマッチではなく通常の試合形式で行われ、12月24日に録画中継された)。
 
[[1973年]]11月28日の横浜文化体育館大会では、日本初の金網インディアン・ストラップ・マッチとしてグレート草津vs[[ワフー・マクダニエル]]が行われた。この際のルールは通常の金網デスマッチルールと異なり、反則攻撃は可能で、相手をノックアウトした後に相手を引きずってリングを2周すれば勝利するというもので、アメリカでは一般的な1周ルールよりも異なっていた。当日は番組収録も行われており、マイティ井上VSデーブ・ラーセンは12月15日に、ストロング小林&ラッシャー木村VS[[オレイ・アンダーソン]]&[[ジン・アンダーソン]]([[ミネソタ・レッキング・クルー]])は12月22日にそれぞれ録画中継された。また、[[1974年]]6月5日の[[山形県]][[米沢市]]体育館大会では、日本初の金網チェーン・デスマッチとしてラッシャー木村VS[[セーラー・ホワイト]]が行われた。
 
[[1974年]]9月に『[[プロレスアワー|国際プロレスアワー]]』としてレギュラー中継を再開した東京12チャンネル(現:[[テレビ東京]])では金網デスマッチの放映を解禁した。東京12チャンネルにおける金網デスマッチ中継初回は、同年7月5日に行われた『'74ビッグ・サマー・シリーズ』[[鹿児島県]][[鹿屋市]]体育館大会のラッシャー木村VS[[ベンジー・ラミレス|ザ・キラー]]戦で、両者による金網チェーン・デスマッチを7月29日に『月曜スポーツスペシャル』枠で録画中継した。『国際プロレスアワー』は後述の通り基本的に録画中継だったため、[[凶器 (プロレス)|凶器]]攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映し、そのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。東京12チャンネルにおける金網デスマッチの中継は、レギュラー放送を打ち切り特番枠へ移行後の[[1981年]]5月16日に[[後楽園ホール]]で行われた[[ポール・エラリング]]&テリー・ラザンVSマイティ井上&[[阿修羅・原]]のIWA世界タッグ王座戦(同年9月16日に録画中継)が最後となったが、金網デスマッチ自体は崩壊当日まで行われた。
 
=== テレビ放映権移行、全日本プロレスとの交流 ===