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== 生涯 ==
[[応仁]]元年([[1467年]])からの[[応仁の乱]]では東軍側に付く。[[文明 (日本)|文明]]5年([[1473年]])、家長は将軍[[足利義政]]の命により、子の[[小笠原定基]]や[[木曾家豊]]([[木曾義元]]の父)と共に[[|美濃]]攻略のため、[[足利義視]]方の[[土岐成頼]]の居城・[[恵那郡]]の[[大井城 (美濃国)|大井城]]や[[土岐郡]]の[[釜戸村]]にあった[[荻島城]]を攻め落とす。その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は、[[天文 (元号)|天文]]年間([[1532年]]~[[1555年]])まで信濃勢の駐留が続いた。
 
[[京極氏]]の[[お家騒動]]([[京極騒乱]])にも介入、東軍の[[京極政経]]・[[多賀高忠]]に加勢して西軍の[[京極高清]]、[[多賀清直]]・[[多賀宗直|宗直]]父子、[[六角高頼]]を打ち破った。『小笠原文書』によると武田兵庫助を介して、文明10年([[1478年]])、[[尾張国|尾張]]の[[守護代]]であった[[織田敏定]]の要請で美濃の[[斎藤妙椿]]を牽制するため、援軍を送っている。