「追腹一件」の版間の差分
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4代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱]]のもとで[[文治政治]]への転換を進めていた[[江戸幕府]]では、この事件に先立つ寛文3年([[1663年]])に[[殉死禁止令]]<ref group="注釈">[[武家諸法度]]の改訂公布にともない、口頭伝達されていた[[命令]]。なお、殉死禁止を[[成文法]]化すべきという意見もあったが、これが口頭伝達になったのは、殉死を美風とみる意見が幕閣内にも存したからであった。深谷(1993)pp.391-392</ref>を既に発布していた。そこで、昌能・杉浦の行為をともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、[[御連枝]]の家柄とはいえ[[奥平氏|奥平家]]に対し2万石を[[減封]]して[[出羽国|出羽]][[山形藩]]9万石への[[転封]]に処し、殉死者杉浦の相続者を[[斬罪]]に処するなど厳しい態度で臨んだ<ref name=fukaya/>。これにより、殉死者の数は激減したといわれる。
なお、忠昌没後14日目には、奥平内蔵允が、[[法要]]への[[遅刻]]を「腰抜け」となじった奥平隼人を武士の一分を立てるためと斬りつけた事件([[興禅寺刃傷事件]])がもとで、内蔵允の子奥平源八らによって江戸[[牛込]]浄瑠璃坂での仇討ち事件(「[[浄瑠璃坂の仇討]]」)がのちに起こっている<ref name=fukaya/><ref group="注釈">[[鍵屋の辻の決闘|伊賀越の仇討ち]](鍵屋の辻の決闘)、[[
== 脚注 ==
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