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| 本名 = 柿澤竹蔵
| 別名義 = 都夢中(一中節)
| 出生地 = {{Flagicon|JPN}} [[神奈川県]][[横浜市]]山下町
| 死没地 = {{Flagicon|JPN}} 東京都
| 国籍 =
| 民族 =
| 身長 =
| 血液型 =
| 襲名歴 = 清元松喜太夫→清元志寿太夫
| 生年 =1898 1898
| 生月 = 4
| 生日 = 25
| 没年 = 1999
| 没月 = 1
| 没日 = 2
| 職業 = [[江戸]][[浄瑠璃]][[清元節]]
| ジャンル =
| 活動期間 = [[1913年]] -[[1998年]]|
| 活動内容 = 江戸浄瑠璃清元節浄瑠璃
| 配偶者 =
| 著名な家族 = 妻・[[清元延香]] <br />息子・[[清元榮三郎]]([[重要無形文化財保持者]]、人間国宝。父子二代は初。)<br />[[清元小志寿太夫]]<br />[[清元志佐雄太夫]]<br />[[清元志寿朗]]<br />[[清元志寿子太夫]]<br />孫・[[清元志寿雄太夫]]、<br />[[清元延知寿]]<br />曾孫・[[清元延綾]]<br />[[清元一太夫]]
| 事務所 =
| 公式サイト = *[http://www.kiyomoto.org/ 清元協会ホームページ]
| 受賞 =[[1961年]]・『高尾ざんげ』の演奏と多年にわたる[[古典]]の復活発表に対し[[芸術選奨]][[文部大臣賞]] <br />[[1968年]]・日本芸術院賞 <br />[[1969年]]、勲三等瑞宝章受章(没後[[正四位]][[勲二等]]瑞宝章を追綬 <br />[[1978年]]・日本芸術院会員就任 <br />[[1981年]]・[[日本放送協会|NHK]][[放送文化賞]]を受賞<br />[[1982年]]・文化功労者。
| 主な作品 = 「[[忍逢春雪解]]」<br />「[[隅田川]]」<br />「色彩間苅豆 [[かさね]]」<br />「豊後道成寺」(三世[[今藤長十郎]]作曲)<br />「[[六歌仙色彩]] [[文屋]] [[喜撰]]」<br />「[[道行初音旅]] [[吉野山]]」<br />「[[道行旅路花聟]] [[落人]]」<br />「保名」<br />「[[恋飛脚大和往来|道行故郷の春雨 梅川忠兵衛]]」<br />「其小唄夢廓 権上」<br />「[[神田祭]]」<br />「[[申酉]] [[お祭り]]」<br />「[[四君子]]」<br />「花がたみ」」<br />「[[青海波]]」<br />「長生」<br />「[[浮かれ坊主]]」<br />「[[北州千歳壽]]」<br />「梅の春」<br />「雁金」<br />「吉田屋」<br />「四季三番草」<br />「お染」<br />「旅奴」<br />「[[明烏花濡衣]]」<br />「十六夜清心」<br />「弥生の花浅草祭 [[三社祭]]」<br />「六玉川」<br />他 
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
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| 備考 = [[1956年]][[重要無形文化財]]保持者(人間国宝)に各個認定。
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'''清元 志寿太夫'''(きよもと しずたゆう、[[1898年]]([[明治]]31年)[[4月25日]] - [[1999年]]([[平成]]11年)[[1月2日]])は、[[大正]]から[[平成]]にかけて活躍した[[清元節]][[太夫]]。正式表記は旧字の'''志壽太夫'''。
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* 1923年 - [[清元喜久太夫|二世喜久太夫]]に入門して松喜太夫と名乗り、浅草観音劇場に於ける「喜撰」「吉野山」で初舞台。
* 1924年 - 延寿太夫の門下に移って初代'''清元志寿太夫'''となった。[[市村座]]『筆幸』を勤めたのを皮切りに、その年の内に[[清元延寿太夫 (五世)|清元延寿太夫]]の脇を語る。
* [[1926年]]には[[大阪]]弁天座『三社祭』にて初めての[[立語り]]。名人として知られた師の晩年の芸をよく吸収し、生れつきの声量、美声と相俟って[[尾上菊五郎_ (6代目)|六代目尾上菊五郎]]を初めとする役者にも重宝され、着々と実績を積みかさねてゆく。
* [[1938年]]に五世延寿太夫が病に倒れ、また時を同じくして六世延寿太夫を相続する予定であった[[清元栄寿太夫|四世栄寿太夫]]が早世したため、その後継者として[[舞台]]と[[社中]]を支え、戦後は朋輩の[[清元榮寿郎]]や[[清元寿國太夫]]、[[清元正寿郎]]らと協力して若年であった[[清元延寿太夫 (六世)|清元延寿太夫]](五世の孫、栄寿太夫の子息)を側面から支え、社中を統率し清元節太夫の第一人者として斯界に大きな影響を与えた
* [[1980年]] - 5月28日、[[歌舞伎座]]で「清元生活六十五年記念演奏会」を開催。
* 同年、三世[[今藤長十郎]]と「芸遊会」を開催。三世今藤長十郎作曲、志寿太夫節付の「豊後道成寺」を披露する。[[長唄]]と[[清元]]の第一人者の競演で話題を呼んだ。この「豊後道成寺」を見た、[[中村雀右衛門_ (4代目)|四代目中村雀右衛門]]が主宰する「雀右衛門の会」での上演を申し入れ、[[藤間勘祖 (2世)|2代目藤間勘祖]]の振付、志寿太夫の[[浄瑠璃]]で上演。後に歌舞伎の本興行にも取り上げられ何度も踊っている。 
*[[1988年]] - 2月27日歌舞伎座で「清元志寿太夫の[[卒寿|卆寿]]の会」を開催。以後、[[1991年]]10月まで七回目まで「志寿太夫の会」を歌舞伎座で開催。
*[[1997年]]‐1月「百歳」を記念して、「壽初春大歌舞伎」昼の部のキリ狂言で「清元志寿太夫百寿を祝して 青海波」が上演された。幹部、花形が総出演した。
*[[1998年]]‐11月「清元延寿太夫清元宗家継承十周年演奏会」が歌舞伎座で行われた。この舞台に出演したのが最後だった。
*[[2005年]] - 1月「清元志寿太夫七回忌追善演奏会」が歌舞伎座で開催される。 [[中村勘三郎_ (18代目)|十八代目中村勘三郎]]が「玉兎」、[[尾上菊五郎_ (7代目)|七代目尾上菊五郎]]と、[[尾上菊之助_ (5代目)|五代目尾上菊之助]]が「道行初音旅」(吉野山)、[[中村雀右衛門_ (4代目)|四代目中村雀右衛門]]が「雁金」を踊り、[[清元延寿太夫 (七世)]]らで「隅田川」を演奏した。  
 
==家系==
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==脚注==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[浄瑠璃]]
139行目:
{{-}}
{{日本芸術院賞}}
 
{{DEFAULTSORT:きよもと しすたゆう}}
[[Category:清元節]]