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== 歴史 ==
1945年1月、[[B-29_(航空機)|B-29]]が投下した磁気[[機雷]]が問題になり、中央は、これを掃海するため、海軍工作学校の校長[[美原泰三]]少将に「瀬戸内海航路百m航路啓開対策」の具体化を指示した。しかし、5月に入ると、この掃海潜水具で特攻隊を編成せよ、という命令を受けた<ref>門奈鷹一郎『海軍伏龍特攻隊』光人社NF文庫22-23頁</ref>。3月1日に発令された「海軍突撃部隊編制令」に伏龍の名前が現れる
隊員の多くは、教育中止で本土決戦に向けて防空壕を掘っていた10代後半の[[海軍飛行予科練習生|予科練]]出身者であったが、緒戦で活躍した[[海軍陸戦隊]]の古兵も投入された。一般兵では呼吸のこつが呑み込めず事故が頻発したため、航空機搭乗員として身体能力に優れた予科練が選抜されたという<ref>[[#花の予科練]]p.193-194</ref>。選抜条件には「孤独に耐えうる者」が重視され、本来なら家を継ぐべきはずの長男が多く選ばれた<ref name="iida"/>。志願制ではなく、命令であった<ref>[[#花の予科練]]p.188</ref>。伏龍部隊は鎮守府に所属し、横須賀5個大隊、呉2個大隊、佐世保2個大隊、舞鶴1個大隊が整備される予定であった。6月から横須賀対潜学校で先遣部隊要員480名への訓練が始まった。その後潜水訓練は、[[神奈川県]][[横須賀鎮守府]]の野比海岸、[[広島県]][[呉鎮守府]]の情島、[[長崎県]][[佐世保鎮守府]]の川棚などで行われ、合わせて3,000人近くが訓練を受けた。米軍の本土上陸は9-10月との想定で、作戦は米軍の上陸作戦正面と考えられていた[[九十九里海岸]]などを想定していた。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。しかし1945年[[6月10日]]、[[土浦海軍航空隊]]で訓練中の訓練生・教官が空襲を受け、その内281名が死亡している。
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