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古の人物につき王府の史書でもその詳細を欠いている。記されているわずかな情報は、伊是名島(現・[[島尻郡]][[伊是名村]])首見(諸見)村の人であったこと、妃の生没年([[洪武]]29年([[1396年]]) - 宣徳9年(1434年)[[2月2日_(旧暦)|2月2日]])、妃とともに[[伊是名玉陵]]に葬られたこと、長男が尚円で次男に[[尚宣威王|尚宣威]]がいる、という程度である。生年不詳となっているが、長男の尚円の生年が[[永楽 (明)|永楽]]13年([[1415年]])であることから、[[1400年]]以前であることが推測される。
 
あとは史書でも「遺老伝」にてと断ったうえで、「''尚円には弟・尚宣威のほか、姉・叔父・叔母がおり、阿武加那志と称する姉の子孫、銘苅里主と称する叔父の子孫、多嘉屋田阿武と称する叔母の子孫がいる''」という記録があり、尚稷には弟と妹がいたことが言及されているが、これらは既に昔の事なので詳細は不明だとしている。なお、ここで叔父であるとされている向元輔・[[銘苅朝烈|銘苅親方朝烈]]を元祖とする銘苅家は、のちに子孫へ家譜が給され、夫地頭であるにもかかわらず家譜を持つという例外的な扱いをうけた。また王叔にあたる者は原則として王子位になるが、銘苅家の場合はここでも例外的に親方位となっている。これは、尚円王統の出自を伊是名とする話が後世の創作であったとの説の論拠ともなっている(伊是名出身とする根拠にするため、伊是名の有力者を尚円の叔父としたが、実際に叔父ではなかったため親方位にとどめた)。
 
[[康熙]]38年([[1699年]])[[2月7日_(旧暦)|2月7日]]を以って王号を追贈され、尚円以下の歴代の王とならび[[円覚寺_(那覇市)|円覚寺]]において祀られるようになった。