「不凍港」の版間の差分
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ウラジオストクが不凍港であるとの記述に対する疑義。誤解に基づく独自研究ではないか |
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不凍港は、[[ロシアの歴史|ロシア史]]に関連して言及されることの多い用語である。[[18世紀]]以降海洋進出に乗り出したロシアは広大な[[面積]]を有するものの国土の大部分が高緯度に位置し、[[黒海]]・[[日本海]]沿岸やムルマンスク地区、[[カリーニングラード]](旧ケーニヒスベルク)等を除き、冬季には多くの港湾が[[結氷]]する。そのため、政治経済上ないし軍事戦略上、不凍港の獲得が[[国家]]的な宿願の一つとなっており、歴史的には幾度となく[[南下政策]]を推進してきた。
ロシアの北に寄った国土は、[[冬]]が長く、寒冷・多雪などといった現象をもたらし、一部を除けば農業生産は必ずしも高くない。ここでは高い[[人口密度|密度]]の[[人口]]を支えることが困難であり、人々はよりよい環境を求めて未開発の周辺地域に移ろうと努める<ref name="kimura11">[[#木村|木村(1993)pp.11-39]]</ref>。なかでも、より温暖な南方の土地を求める願望には根深いものがある<ref name="kimura11"/>。一方、ロシア人は概して政治的権力による統制を極度に嫌う[[無政府主義|アナーキー]]な傾向をもち、このようなロシア人気質はこうした膨張主義を助長しているといわれる<ref name="kimura11"/>。人々は国家からの介入を嫌い、辺境へ、権力の外側へと向かおうとするのであるが、権力の側もむしろこれを利用して、人々が苦労して入植して開墾した土地に後から追いつき、その政治力・軍事力を用いて労せず入手するということが繰り返されてきた<ref name="kimura11"/>。これは、第三者からみれば、官民一体の南進運動であるかのように映るのであり、それゆえ周囲に強い警戒感をまねいたのである。
=== ロシアの主な不凍港 ===
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{{See also|ピョートル1世}}
[[ファイル:Voronezhold.jpg|230px|right|thumb|18世紀のヴォロネジ]]
[[ロマノフ朝]]初期のロシアにおける主要港は年間数ヵ月は氷に閉ざされる[[白海]]沿岸の[[アルハンゲリスク]]のみあり、黒海沿岸はオスマン帝国、バルト海への出口はスウェーデン([[バルト帝国]])によって支配されていた<ref name="doi5">[[#土肥1992|土肥(1992)p.5]]</ref>。
[[17世紀]]後葉から[[18世紀]]前葉にかけてロシアの君主であった[[ピョートル1世]]は、[[1695年]]、黒海への出口を求めて[[ドン川|ドン川畔]]の[[アゾフ]]に遠征し({{仮リンク|アゾフ遠征 (1695年 - 1696年)|ru||en|Azov campaigns (1695–96)|label=アゾフ遠征}})、ピョートル自身も一砲兵下士官として従軍したが、要塞の包囲はオスマン海軍の活動によって妨げられて失敗した<ref name="doi49">[[#土肥|土肥(1992)pp.49-50]]</ref>。ピョートルは海軍創設に乗り出し、ドン川畔[[ヴォロネジ]]に[[造船所]]を建設してわずか5ヶ月で[[ガレー船]]と閉塞船27隻、平底川船約1300隻から成る艦隊を造らせた<ref name="doi49"/>。これが[[ロシア海軍]]の始まりである<ref name="toriyama24">[[#鳥山|鳥山(1978)p.24]]</ref>。[[1696年]]に再度アゾフ遠征をおこない、ピョートル自らがガレー船に乗船して戦い、その指揮による水陸共同作戦が功を奏してアゾフが陥落、ロシアは海への出口を手に入れた<ref name="toriyama24"/>。しかし、進出地はまだ黒海に接続する[[内海]]の[[アゾフ海]]にとどまっていた。
ピョートルはまた、スウェーデンに対しては[[北方戦争]]([[1700年]]-[[1721年]])において好敵手[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]を相手に優勢に戦いを進め、[[ニスタット条約]]によって[[カルヤラ (伝統州)|カレリア]]の大部分、[[エストニア公国|エストニア]]、[[リヴォニア]]、[[イングリア]]など[[バルト海]]沿岸の地を獲得し、北方の強国として本格的に海洋に乗り出した。[[ロシア・ツァーリ国]]は「ロシア帝国」に改称、ピョートル自身も「[[ロシア皇帝]]」を名乗り、バルト海に臨むイングリアの[[サンクトペテルブルク]]に新都を築いた。[[1722年]]にペテルブルク港に入港した外国船は早くもアルハンゲリスクを上回った<ref name="doi161">[[#土肥2002|土肥(2002)pp.161-169]]</ref>。エストニアの[[タリン]](レバル)やリヴォニア(現[[ラトビア]])の港湾都市[[リガ]]もロシア帝国領となった<ref group="注釈">リガは長い間、サンクトペテルブルク、モスクワに次ぐロシア帝国第3の都市として発展した。</ref>。ただし、先述のアゾフ要塞は、北方戦争最中の[[1711年]]に[[プルート川の戦い]]でオスマン軍に包囲され、解囲の交渉の際にオスマン側に返還した。ピョートルによってロシア艦隊初の基地が置かれたアゾフ海沿岸の[[タガンログ]]もまた破壊され、放棄された([[プルト条約|プルート条約]])<ref name="doi161"/>。
[[ファイル:Petropavlovsk center port.jpg|320px|right|thumb|ペトロパブロフスク・カムチャツキー港の中心部]]
ピョートルはさらに、[[1702年]]、[[コサック|シベリアコサック]]の頭目[[ウラジーミル・アトラソフ]]に命じて[[カムチャツカ半島]]を征服し、そののち、[[デンマーク]]出身の[[ヴィトゥス・ベーリング]]に北東探検を命じた<ref name="kimura11"/>。ベーリングは、[[1725年]]から[[1730年]]まで、また[[1733年]]から[[1741年]]までの2度にわたり、カムチャツカ半島はじめ[[オホーツク海]]や[[アラスカ]]地域を探検し、[[ユーラシア大陸]]と[[北アメリカ大陸]]が陸続きではないことを確認、さらに[[アリューシャン列島]]を「発見」した<ref group="注釈">[[ベーリング海]]、[[ベーリング海峡]]、[[ベーリング島]]、[[ベーリング地峡]]などは彼の名にちなむ。</ref>。
カムチャッカ半島に所在する不凍港[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー]]の地名は、ベーリングの第2次北東探検隊の2隻の探査船「聖使徒ペトロ(ピョートル)号」および「聖使徒パウロ(パーヴェル)号」にちなむ。[[アバチャ湾]]最奥部に立地する同港は、天然の良港ではあるが、[[鉄道]]を含め、ロシアにおける他の諸地域とは陸上における連絡手段に欠けており、[[海上輸送]]に加え、現代では[[航空|航空輸送]]に依存するところがきわめて大きい。
=== エカチェリーナ2世と南下政策 ===
{{See also|エカチェリーナ2世}}
[[ファイル:Sevastopol 04-14 img04 view from Suvorov Square.jpg|right|thumb|320px|黒海に臨むセヴァストポリ]]
[[ファイル:Одесса. Морской порт..JPG|320px|right|thumb|オデッサ港(ウクライナ)遠景]]
「[[啓蒙専制君主]]」として知られる女帝[[エカチェリーナ2世]]もまたさかんに領土を拡張した。3度にわたる[[ポーランド分割]]([[1772年]]、[[1793年]]、[[1795年]])のほか、2度の[[露土戦争]]([[露土戦争 (1768年-1774年)|第一次(1768年-1774年)]]・[[露土戦争 (1787年-1791年)|第二次(1787年-1791年)]])を通じて黒海沿岸に進出した。
[[1768年]]から[[1774年]]までつづいた第一次露土戦争では[[オスマン帝国]](トルコ)軍を相手に戦いを有利に進め、1774年7月、トルコとの間に[[キュチュク・カイナルジ条約]]を結んで[[黒海]]沿岸地方への進出を果たした<ref name="doi90">[[#土肥1992|土肥(1992)pp.90-91]]</ref><ref name="doi196">[[#土肥2002|土肥(2002)pp.196-197]]</ref>。この条約により、ロシアはピョートル1世が失ったアゾフやタガンログを奪回、[[クリミア・ハン国]]に対するオスマン帝国の宗主権は否定され、ロシアは逆に[[ボスポラス海峡]]の自由航行権を得た<ref name="doi196"/><ref name="la437">[[#ラルース|『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)p.437]]</ref><。ロシアは、こののち[[ウクライナ]]に近接する黒海北岸地方の開拓を急速に進めていったが、その中心となった人物が女帝エカチェリーナの寵臣で、女帝とは[[愛人]]関係にあった[[グリゴリー・ポチョムキン]]である<ref name="doi90"/><ref name="doi196"/>。エカチェリーナ2世は、[[1775年]]にポチョムキンを「[[ノヴォロシア]]」(「新ロシアの意」)と名づけた黒海沿岸の県([[グベールニヤ]])の県知事に任命し、同年4月、ロシアはトルコ側が条約に違背したとして、これを口実に[[クリミア半島]]の領有を進めた<ref name="doi90"/><ref group="注釈">「新ロシア」とは、現在の[[ヘルソン州]]にほぼ相当し、戦後は[[ムィコラーイウ州]]、[[オデッサ州]]も加わった。今日では、この3州は「南ウクライナ」と総称されることが多い。</ref>。翌[[1776年]]、ポチョムキンは[[黒海艦隊]]を編成し、クリミア半島の先端に、防衛拠点として、また将来的な対外進出の基地として[[セヴァストポリ]]の[[軍港]]建設に着手した<ref name="doi196"/><ref group="注釈">1778年にはエカチェリーナ女帝のクリミア巡幸がなされ、一行が訪れる都市や集落には新しい建造物が建設されたが、その一部は壮大な偽物であったため、「[[ポチョムキン村]]」と揶揄された。[[#土肥2002|土肥(2002)p.197]]</ref>。
エカチェリーナ2世は、[[1782年]]にオーストリアの[[ヨーゼフ2世]]とのあいだに[[バルカン半島]]分割の秘密協定を結び、[[1783年]]、「クリミア・ハン国独立」の名においてクリミア併合を宣言した。長年属国としてきたクリミアがロシアに統治されることを屈辱とする意見が強まったオスマン側はこれを認めず、[[1787年]]4月、ロシアに対して宣戦布告、露土両国はその後4年にわたって再び戦火を交えた<ref name="doi90"/><ref name="doi196"/>。この第二次露土戦争では、名将[[アレクサンドル・スヴォーロフ]]の指揮の下、陸戦、海戦いずれにおいても終始ロシア側が優位に立ったが、[[フランス革命]]の影響やロシア軍の疲弊、[[プロイセン]]のポーランド介入、オーストリアの戦争離脱などによって講和に傾いた<ref>[[#高橋1988|高橋(1988)p.135]]</ref>。1791年、[[フランス]]・[[イギリス]]両国の干渉もあって、モルダヴィア(現在の[[ルーマニア]])の[[ヤシ (ルーマニア)|ヤッシー]]において講和会議が開かれた([[ヤッシーの講和]])<ref name="doi90"/><ref name="doi196"/>。これにより、クリミアのロシアへの併合が正式に承認され、[[エディサン]]地方のロシアへの割譲が決まり、[[ヨーロッパ]]におけるロシア・トルコ両国の境界は従来より西の[[ドニエストル川]]に移った<ref group="注釈">アジアにおける両国の境界は[[クバン川]]のままで変わらなかった。</ref>。ロシアは、こうして黒海北部沿岸全体の領有を果たし<ref name="la437"/><ref name="channon44">[[#チャノンハドソン|チャノン&ハドソン(1999)pp.44-45]]</ref>、トルコは黒海の[[制海権]]を完全に失った。黒海沿岸には、[[1794年]]に貿易都市[[オデッサ]]が建設されたのをはじめ、[[ヘルソン]]や[[ムィコラーイウ|ニコラーイェフ]](ムィコラーイウ)などの港湾都市がつぎつぎに建設された<ref name="doi90"/>。クリミア半島では、セヴァストポリに軍港・要塞が築かれ、[[ヤルタ]]はロシア屈指の高級保養地となった。
[[ファイル:KodiakAlaskaAerialView.JPG|320px|right|thumb|アラスカのコディアック]]
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[[1799年]]、[[オホーツク]]を拠点として[[露米会社]]が活動を始めた。これはロシア皇帝[[パーヴェル1世]]が、極東および北アメリカでの[[植民地]]経営と[[毛皮]]交易を目的として官僚・外交官であった[[ニコライ・レザノフ]]に勅許をあたえたものであり、アラスカの統治も露米会社に委ねられた。
パーヴェル1世は自身を疎んだ母エカチェリーナ1世を恨み、対外的には親プロイセン的な、国内では母とは正反対の政策を実施したが、その子の[[アレクサンドル1世]]はエカチェリーナ自慢の孫であり、[[ナポレオン戦争]]の時代を乗り切った<ref name="doi203">[[#土肥2002|土肥(2002)pp.203-206]]</ref>。[[1808年]]から翌年にかけての[[第二次ロシア・スウェーデン戦争]]ではスウェーデンに勝利して約600年スウェーデン支配下にあった[[フィンランド]]を獲得、そこにはロシアの保護国として[[フィンランド大公国]]を成立させ、自治を認めた<ref name="doi203"/>。フィンランド大公国は第一次大戦までつづき、ロシアは[[ヘルシンキ]]はじめフィンランドの諸都市を支配した。
=== グレート・ゲームと「東方問題」 ===
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[[19世紀]]前半からオスマン帝国内の諸民族が自立化の動きを強めると、ロシアをはじめとするヨーロッパ諸国はこれに介入して[[バルカン半島]]一帯や[[エジプト]]などの地域に勢力をのばそうとして競合するようになった。これを、西欧諸国からみて東方にかかわる諸問題であったため「[[東方問題]]」という。「東方問題」は、ドイツ・オーストリアの「[[パン=ゲルマン主義|汎ゲルマン主義]]」とロシアの「[[汎スラヴ主義]]」の対立、エジプトとオスマン帝国の紛争およびそれに関わる英仏の中近東政策の対立、イギリスの[[3C政策]]とドイツの[[3B政策]]の対立、そして、ロシアの[[南下政策]]とイギリスの[[帝国主義]]政策の対立(「[[グレート・ゲーム]]」)などが絡み合って複雑な様相を呈した。
このなかで、ロシアは[[ギリシア独立戦争]](1821年-1829年)や2度の[[エジプト・トルコ戦争]]([[1831年]]-[[1833年]]、[[1839年]]-[[1840年]])などの機会をとらえ、オスマン帝国に圧力を加え、不凍港と[[地中海]]への出口を求めた。これは、黒海から[[小アジア]]、[[シリア]]にかけての地域が古来ヨーロッパとアジアの結節点にあたっていたこととも大きくかかわっている<ref name="okabe246">[[#岡部2|岡部「太陽の没しない帝国ヨーロッパ」(1975)pp.246-249]]</ref>。サンクトペテルブルクから[[スモレンスク]]経由、モスクワからは[[ハリコフ]]経由でウクライナに達するが、この先に足場を築けば、[[メソポタミア]]、[[インド]]、[[南ヨーロッパ]]、[[北アフリカ]]など古来気候温暖で生産力の高い諸地域に進出するのが容易になる<ref name="okabe246"/>。それに対し、第二次大英帝国の中心がインドにあることは衆目の一致するところであり、インドとイギリス本国をむすぶ[[ジブラルタル]]、[[ケープタウン]]、[[スエズ]]、[[アデン]]の各要衝はいずれもイギリスの押さえるところであった<ref name="okabe246"/>。「グレート・ゲーム」が、主としてこの地をめぐって繰り広げられたのには、このような背景がある。
ギリシア独立戦争の講和条約である1829年の[[アドリアノープル条約]]では、ギリシアの自治、モルダヴィア・[[ワラキア]]・[[セルビア]]の自治、ロシア船舶のボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の自由通航が承認され、ドナウ川の河口部および[[コーカサス|カフカース地方]](コーカサス)のうちの黒海沿岸地域がロシアに割譲された。ロシア南西端[[クラスノダール地方]]に所在する[[ノヴォロシースク]]はこのときにロシア領となった不凍港で、[[1838年]]にはロシア[[黒海艦隊]]の基地がつくられた。[[アブハジア]](カフカース地方)の[[ガグラ]]も港湾を有しており、保養地としても栄えた。
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ロシアは、エジプト・トルコ戦争ではオスマン帝国を従属させる意図でトルコ支援の側に立ち、南下しようとした。しかし、こうしたロシアの南進とオスマン帝国の急激な弱体化は、[[アジア]]・[[アフリカ]]地域に広大な領土と利権をかかえるイギリスやフランスの警戒をまねいた。ロシア皇帝[[ニコライ1世]]はオスマン帝国がフランスと連携を強めたことに危機感をもち、オスマン領内の[[ギリシア正教|ギリシア正教徒]]の保護を名目にトルコに軍を進め、[[1853年]]、[[クリミア戦争]]が始まった。この戦争は、当初はロシアが優勢であったものの、これが[[アフガニスタン]]や[[インド]]へのルートを危機にさらすことになるイギリス、[[クーデター]]による新皇帝[[ナポレオン3世]]の威信を高めたい[[フランス第二帝政|フランス帝国]]、[[イタリア統一戦争]]を視野に入れ、英仏の支持を得ておきたい[[サルデーニャ王国]]はオスマン帝国を支援した。圧倒的な装備と技術を有する英仏両国を主力とする連合軍の猛攻撃により、難攻不落と称されたセヴァストポリ要塞が陥落、ロシアは敗北を喫した。[[1856年]]の[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]では、黒海沿岸の基地の撤去と非武装化が決められ、これは、ロシア南下政策にとっては大きな挫折の第一歩を意味していた<ref group="注釈">この戦争の敗北によってロシアの後進性が明らかになったことから、新帝[[アレクサンドル2世]]は大改革に乗り出し、[[1861年]]に[[農奴解放令]]を発布している。</ref>。
ロシアはまた、[[バルカン半島]]における[[スラヴ]]系諸民族の[[ナショナリズム]]を支援し、[[1877年]]、オスマン帝国に対し[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]を起こし、翌年、ロシア優勢のうちにむすばれた[[サン・ステファノ条約]]によって、[[セルビア公国 (近代)|セルビア]]、[[モンテネグロ公国|モンテネグロ]]、[[ルーマニア公国|ルーマニア]]の各公国がオスマン帝国の支配より独立、さらにロシアの影響を強く受けた広大な[[自治領]]「[[大ブルガリア公国]]」の成立が認められた。黒海に臨む[[グルジア]]の不凍港[[バトゥミ]]もロシア帝国領となった。これに対し、トルコ保全策を採用するイギリスは[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]を[[コンスタンティノープル]]の前面に碇泊させて強い反発の意志を示した<ref name="okabe146">[[#岡部1|岡部「最後のヨーロッパ政策」(1975)pp.146-154]]</ref>。この事態に、クリミア戦争の再現を懸念する[[オットー・フォン・ビスマルク]]の仲介で[[1878年]]、[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]がひらかれ、イギリスとの決定的な対立を望まないロシアもこれに参加した。サン・ステファノ条約で手にした権利を放棄させられたものの、[[ベッサラビア]]南部を獲得している。
なお、[[1870年代]]のロシアでは北極圏に港町を建設する計画がなされ、[[アレクサンドル3世]](在位[[1881年]]-[[1894年]])時代には蔵相[[セルゲイ・ヴィッテ]]らが不凍港ムルマンまで長大な鉄道を敷設して大洋艦隊の基地を建設し、従来のバルト海沿岸の軍港に代えるという構想を提案した。しかし、新帝[[ニコライ2世]]はこの案を却下し、[[バルト海艦隊]]の新たな母港を[[フィンランド湾]]外の[[リバウ]](現リエパーヤ)に建設することとした。
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{{See also|北京条約|シベリア鉄道|露朝密約事件|日露戦争|義和団の乱}}
[[ファイル:Center of Vladivostok and Zolotoy Rog.jpg|right|thumb|320px|軍港として発展してきたウラジオストク]]
ロシアは、北の[[海岸線]]のほとんどすべてが[[北極海]]に面しており、それ以外の大洋への進出ルートとしては、[[バルト海]]、[[黒海]]、[[日本海]]、[[オホーツク海]]、[[ベーリング海]]にほぼ限定される。このうち、[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー]]をのぞくベーリング海とオホーツク海沿岸の諸港はおおむね冬季に凍結し、また、冬季以外でもしばしば[[暴風雨]]にさらされる、また、[[千島列島]]は凍結しないも
ロシア帝国はまず、[[1858年]]の[[アイグン条約]]によって[[アムール川]]以北の[[ハバロフスク地方]]、[[1860年]]の[[北京条約]]によって[[沿海州]](プリモルスキー)を獲得し、この日本海に臨む地に[[ウラジオストク]]や[[ナホトカ]]などの港湾都市を建設して、東方に対する影響力を強めた。{{要出典|範囲=両港ともロシアにとっては念願の不凍港であった|date=2017年5月}}。
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そして、[[モスクワ]]やサンクトペテルブルクなどと沿海州とをむすぶべく、[[1891年]]に[[シベリア鉄道]]の建設を開始し、そのことによって沿海州地域の戦略性を高めた(完成は[[1901年]])。[[19世紀]]後半以降の[[ロシア軍艦対馬占領事件]](1861年)、[[1885年]]と[[1886年]]の[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ]]や[[カール・イバノビッチ・ヴェーバー|ヴェーバー]]らによる[[露朝密約事件|露朝秘密条約]]による朝鮮国内不凍港[[租借]]の約束、[[日清戦争]]後の[[下関条約]]に対する[[三国干渉]]([[1895年]])、[[1896年]]から翌年にかけての朝鮮における[[露館播遷]]、また、[[1900年]]の[[北清事変]]参戦の[[満州]]占領など、いずれも軍港ウラジオストク・商港ナホトカの保全とそれに連なる不凍港獲得によって、さらにその外延部に勢力を拡大していくための営為であった。ロシアは、北清事変ののちも[[北京議定書]]の取り決めを守らず、満洲からは撤兵せず、逆に[[遼東半島]]先端部を清国より租借して[[旅順港]]と[[旅順要塞]]を築いた。日本はこのようなロシア帝国の動きに対し危機感を強め、[[1902年]]に[[イギリス]]とのあいだに[[日英同盟]]をむすんでこれに対抗、最終的には[[日露戦争]]([[1904年]]-[[1905年]])によって決着を図った。旅順はこのようにロシア南下政策の最前線であったと同時にシベリア鉄道およびそれに接続する[[東清鉄道]]によってロシア主要部と結ばれることは、イギリスにとっては東アジア地域に保有する利権の侵害、日本にとっては国家の独立そのものが危機に瀕するため、[[旅順攻囲戦|旅順攻防戦]]がこの戦争最大の激戦となった。
日露戦争開戦時のロシア海軍は、来たるべき対日戦に備え、旅順とウラジオストクを母港とする[[太平洋艦隊
なお、この時期のロシアは並行して熱心に[[砕氷船]]の開発・建造に努めた。[[1899年]]、ロシア海軍の[[ステパン・マカロフ]]提督がロシア初の砕氷船「[[イェルマーク (砕氷船・初代)|イェルマーク]]」を北極海の探検航海に就航させ、その有用性が確認されると、続々に砕氷船が配備された。
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ケーニヒスベルクは、[[1944年]]8月末の[[イギリス軍]]の空襲により大打撃を受け、10月の[[赤軍|ソ連赤軍]]による[[東プロイセン攻勢]]で多数の市民の脱出が始まり、[[1945年]]4月の[[ケーニヒスベルクの戦い]]でついに陥落、残されたドイツ軍はソ連軍に対し降伏した。同年7月に開かれた米英ソ首脳による[[ポツダム会談]]では東プロイセンが南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]に編入されることが話し合われた。[[1946年]]7月、ソ連領となったケーニヒスベルクは[[カリーニングラード]]に改称され、いまに至っている。ロシア本国とのあいだに[[バルト3国]]があり、現在はロシア連邦の飛地となっている。
一方、日本領であった[[千島列島]]に対しては、[[ポツダム宣言]]受諾後の1945年[[8月17日]]から[[9月5日]]までの時期にソ連軍が進軍を開始し、[[占守島の戦い]]では日本側が戦術的には勝利したものの軍命により降伏、[[8月28日]]以降はいわゆる「[[北方領土]]」も含めて占領された<ref name="kimura11"/>。翌 [[1946年]]1月には[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)からの命令書によって日本は全千島の[[領有|施政権]]が停止させられ、ソ連によって自国領として組み入れられた。これが、現代につづく日露間の領土問題の始まりである。なお、このうち、[[択捉島]]の[[単冠湾]]は、冬季でも[[流氷]]が接岸しない天然の良港であり、[[1941年]]冬の[[真珠湾攻撃]]のため日本の[[第一航空艦隊]]が[[ハワイ]]へ向け進発した場所であった。
== 脚注 ==
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* {{Cite book|和書|author=岡部健彦|editor=中山治一|year=1975|month=5|chapter=太陽の没しない帝国ヨーロッパ|title=世界の歴史13 帝国主義の時代|publisher=中央公論社|series=中公文庫|isbn=|ref=岡部2}}
* {{Cite book|和書|author=[[木村汎]]|year=1993|month=9|title=日露国境交渉史|publisher=[[中央公論社]]|series=中公新書|isbn=4-12-101147-3|ref=木村}}
* {{Cite book|和書|author=[[高橋昭一
* {{Cite book|和書|author=[[ジョン・チャノン]]、[[ロバート・ハドソン]](共著) [[桃井緑美子]]+[[牧人舎]](訳)|chapter=モスクワ大公国からロシア帝国へ|editor=|year=1999|month=11|title=地図で読む世界の歴史|publisher=[[河出書房新社]]|series=|isbn=4-309-61184-2|ref=チャノンハドソン}}
* {{Cite book|和書|author=[[土肥恒之]]|chapter=|editor=|year=1992|month=9|title=ピョートル大帝とその時代 サンクト・ペテルブルグ誕生|publisher=中央公論社|series=中公新書|isbn=4121010922|ref=土肥1992}}
152行目:
*[[ポリニヤ]]
*[[流氷]]
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[[Category:ロシアの歴史]]
[[Category:地政学]]
▲{{Geo-term-stub}}
[[en:Warm water port]]
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