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{{Otheruses|1937年の事件|その他|南京事件}}
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'''南京事件'''(ナンキンなんきんじけん)は、[[1937年]](昭和12年)12月の[[南京戦]]において[[日本軍]]が[[中華民国]]の首都[[南京市]]を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の[[日本軍]]が[[国民革命軍|中国軍]]の[[捕虜]]、敗残兵、[[便衣兵]]、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件。戦後[[南京軍事法廷]]や[[極東国際軍事裁判]]で[[告訴]]された。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件 など多様な呼称がある([[#名称の種類と変遷|後述]])。
 
この事件については、事件の規模、虐殺の存否、[[戦時国際法]]違反か、犠牲者数などさまざまな論争が存在している([[南京事件論争]])。故に事件の真相はいまだ不明である<ref>長谷川啓之「南京」「現代アジア事典」文眞堂, 2009</ref><ref name=Kennedy>David・M・Kennedy,[http://www.theatlantic.com/past/issues/98apr/horror.htm The Horror],The Atlantic Monthly 281 (4): pages 110–116,April 1998.[[塩谷紘]]訳 デビッド・M・ケネディ「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』平成10(1998)年8月号</ref><ref>[[#Kennedy(1998)|Kennedy(1998)]]は「南京虐殺事件の背景について万人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。</ref>。
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日本側の問題としては、[[宣戦布告]]のない「[[事変]]」であったために日中両国が批准した[[ハーグ陸戦条約]]を日本陸軍が意識的に徹底せず([[戦時国際法]]関連は[[南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法]]説明あり)、そのため中国兵捕虜の取り扱い指針の欠如と占領後の住民保護を含む軍政方針の欠如が発生、また他方、略奪による進軍が原因の軍紀の緩み、非行を取り締まる憲兵の少なさなどが指摘されている<ref name=nikyod>波多野澄雄; 庄司潤一郎 (2010年1月31日). “<近現代史> 第2部 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 (PDF)”. 第1期「[[日中歴史共同研究]]」報告書. p. 271(PDFファイルの通し番号). 2013年9月28日閲覧。</ref><ref>「憲兵三十一年」上砂勝七、1955年、東京ライフ社、P175-P178、[[#笠原 (1997)|笠原 (1997)]] 62-72頁、[[#秦 (2007)|秦 (2007)]] 216-224頁。</ref>。
 
また、捕虜となることを恥とする習慣から相手国の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている<ref>[[#秦 (2007)|秦 (2007)]] p.196-198。</ref>。また、日中戦争開始頃からの中国軍から受けた戦闘などの被害([[通州事件]]のような民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中国軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある<ref>「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む([[通州事件]]での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121</ref>。
 
中国側の問題としては、防衛戦の誤り、指揮統制の放棄、民間保護対策の欠如など([[南京戦#評価]]にも記載あるとおり、日本軍の開城勧告に応じずに脱走困難になった部下を見捨てたり、住民保護を怠ったことなど)が指摘されている<ref name=nikyod/>。[[南京安全区国際委員会]]の[[ジョン・ラーベ]]も中華民国政府の対応を批判している<ref name=nikyod/>。
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{{Main2|議論|南京事件論争#当時の国際報道についての議論}}
 
アメリカの『[[シカゴ・デイリーニューズ(英語版]])』(12月15日付)<ref>「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 464-468頁</ref>や『[[ニューヨーク・タイムズ]]』(12月18日、19日付)<ref>南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 417-422頁 422-425頁。[[#秦 (2007)|秦 (2007)]]、1-7頁にも訳文等あり。</ref>、イギリスの『[[タイムズ]](ロンドン・タイムズ)』(12月20日)<ref>記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より503-505頁</ref>のような有力紙の記事、ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為(Nanjing(Nanjing Atrocities)Atrocities)が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された<ref>英文記事資料あり [http://www.readex.com/readex-report/nanjing-atrocities-reported-u-s-newspapers-1937-38 The Nanjing Atrocities Reported in the U. S. Newspapers, 1937-38]</ref>。1938年以降も新聞記事や雑誌(アメリカ雑誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」誌の特集(1月、5月)で報道される<ref>1月10日号「ライフ」P.50 「The Camera overseas The Japanese Conqueror brings A Week of Hell to China」、5月16日号「ライフ」P.13「These Atrocities Explain Jap Defeat」</ref>。
 
===事件発生後の外国人の反応===
<!---関連性を示す出典なし--日本の[[戦争捕虜]]に対する人道的扱い、つまり[[戦時国際法]]の遵守については[[日露戦争]]時の日本の捕虜収容所での待遇(四国松山収容所)<ref>「松山収容所―捕虜と日本人」中公新書 1969</ref>や、第一次大戦のドイツ人捕虜[[坂東俘虜収容所]]ドイツ人捕虜の扱いが知られる。また、[[北清事変]]時の日本軍の規律の良さは世界が称賛していた<ref>「日本外交史人物叢書 第24巻 破滅への道:私の昭和史」上村伸一著 1966年 鹿島研究所出版会 81頁 </ref>。--->当時、南京に在住した欧米人は、日本に家族をおいていた人もいて、(南京戦の前の)南京在住の日本人との交際などから得た好印象を日本に対して持つものもいたし<ref>「上海時代(下)」松本重治 中公新書249-251頁、251-253頁</ref>、「日本軍の入城後の秩序の安定」への期待が、南京攻略時に在住した記者の書いた『[[ニューヨーク・タイムズ]]』(12月18日)の記事やドイツ人ビジネスマンの[[ジョン・ラーベ]]も記録している<ref>ラーベ著「南京の真実(ラーベ日記)」312頁 帰国後の講演の部分で、中国人に日本軍が来たら治安が落ち着くと言っていたこと 80頁 駐日ドイツ大使館からのドイツ駐華大使宛の電報「日本は都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできる限り寛大に扱う」</ref>。しかし、[[南京戦]]後は、日本軍入城前後より戦闘終了後に日本軍が[[戦時国際法]]違反を行い、それも人道上、非常に問題ある行為を看できないほど行ったとラーベ、マギー、ベイツらが記述し、またラーベ、ベイツ、ヴォートリンは中国兵による放火や暴行も記録している<ref>「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年、ベイツ「スマイス調査」序文、「南京事件の日々」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年、「ドイツ外交官の見た南京事件」 大月書店 2001年、「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 [[笠原十九司]] [[岩波現代文庫]] [[岩波書店]]</ref>。
 
== 中国政府の対応 ==