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=== 近鉄時代 ===
{{By|2001年}}、この年は1月4日に藤井寺球場で自主トレを開始、北川も「こんなにバットを振ったことはないですね」とコメントするほど練習した。[[梨田昌孝]]監督に認められて一軍に定着し、[[4月28日]]にプロ初本塁打を記録した。[[5月27日]]は北川の29歳の誕生日だったが、生まれて初めて[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]安打を放ち、さらに[[お立ち台]]で涙を流した。北川はその後2週間後にもサヨナラ打を放ち、9月24日の対西武戦では代打として出場し、埼玉[[西武ライオンズ|西武]]の[[松坂大輔]]から本塁打を放ち勝利に貢献している<ref>『サヨナラ近鉄バファローズ』P50</ref>。これでチームは優勝へのマジックナンバーを1とした。そして、[[9月26日]]の対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]戦でオリックスの守護神・[[大久保勝信]]から代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、チーム12年ぶりのリーグ優勝を決めた([[#代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]も参照)。続く[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]との[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では1勝4敗と敗れたがものの、全試合に出場して14打数7安打、打率.500の好成績を残した。
{{By|2002年}}は[[オープン戦]]で負傷し、43試合・打率.266・1本塁打・8打点と精彩を欠いた。{{By|2003年}}、[[5月25日]]に不振の[[中村紀洋]]に代わって自身初の4番に座るなどし、て打率.309、13本塁打、50打点の成績を残した。
{{By|2004年}}、打撃を活かすため内野手へ転向するした。開幕前に[[吉岡雄二]]が負傷したこともあって開幕スターティングメンバーに名を連ね、この年もアテネ五輪に出場した中村の代わりに4番に座っている<ref>『さらば大阪近鉄バファローズ』P33</ref>。この年、在籍する近鉄とオリックスとの球団合併問題が浮上。9月の[[プロ野球ストライキ|ストライキ]]のあった2試合を除く133試合にフル出場、打率.303・20本塁打・88打点の自己最高成績を収めた<ref group="注">同年のパ・リーグで全試合出場を果たしたのは、北川・[[中島裕之]]・[[川崎宗則]]の3人だけだった。</ref>。シーズン最終戦だった9月27日の対オリックス戦では、4回表に[[具臺晟]]からソロ本塁打を放ち、これが大阪近鉄バファローズ最後の本塁打・打点となった。北川もシーズン終了後、大阪近鉄の合併消滅に伴い発足した新球団・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]との[[選手分配ドラフト]]でオリックスに所属することとなり、背番号も'''23'''となった。
=== オリックス時代 ===
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