「見沼代用水」の版間の差分
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== 設計および測量 ==
代用水の建設は、文字通り見沼溜井の代替となる水路の建設であったが、同時に見沼以外の用水路流域周辺の沼地を干拓する壮大な計画であった。井沢弥惣兵衛は周囲を調査し、利根川や荒川の治水も考慮して埼玉郡(さきたまぐん)から足立郡を抜ける約
[[ファイル:Gyoda Minumamotoiri Park 1.JPG|thumb|right|220px|見沼元圦公園の元圦跡]]
用水は、利根川から取水されることとなったが、その場所は現在の[[行田市]]にあった下中条村の地となった。この付近の利根川の流れは水深が年間を通して安定していた。また、享保以前100年間の洪水時でも堤の決壊したことがないなど、好条件がそろった場所であることが理由となった。現在の代用水の取水口も江戸時代とほぼ同地点の[[利根大堰]]であり、当時の土木水準の高さをここからも窺い知ることが出来る。
代用水建設のための測量は、利根川からの上流側と見沼溜井から流れ出ていた[[芝川 (埼玉県)|芝川]]の下流側からの二手に分かれて進められた。測量は'''水盛り'''とよばれた水準測量により行われ、30間(約
また水路となる場所は、既存の水田を避けて出来るだけ未開の場所を選択し、減水を防ぐため比較的地盤の固い場所を選んで決められた。
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測量がほぼ終わり、見沼溜井周囲の農業の水需要が減った[[1727年]](享保12年)9月から水路の開削が始まった。工事は水路沿いの村々にそれぞれ割り当てて請け負わせたが、工事に必要な木材や釘は幕府より支給され、また大工、石工、鍛冶など技能を必要とする人員についても幕府より派遣された。
下中条村の取り入れ口は、長さが約43.
星川と分かれた水路は、新たに開削された幅約6間の水路を南下する。柴山(現在の[[白岡市]])で元荒川と交差するが、元荒川と代用水の高低差があるため、[[#伏越|伏越]](ふせこし、詳しくは後述)で元荒川を越える。工事当時の元荒川は湾曲した流れになっていたため、元荒川の流路の湾曲を正す工事も行われた。また、元荒川の交差には通船のための、[[#懸渡井|懸渡井]](かけとい、詳しくは後述)も作られた。しかしこの懸渡井は[[1760年]](宝暦10年)に水害のため大破し、取り壊された。
[[ファイル:Hasuda Minuma Canal Kawarabuki kaketoi Remains 1.JPG|thumb|right|200px|瓦葺懸渡井跡[http://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110905.html]]]
さらに新設の水路を下り、[[瓦葺 (上尾市)|瓦葺村]](現在の[[上尾市]])では[[綾瀬川]]と交差するが、ここでは懸渡井で綾瀬川を越える。綾瀬川周囲は、[[後背湿地|低地湿地]]となっており、最も難工事であった場所と考えられている<ref>{{Cite web |date=2009-04 |author=高崎哲郎 |url=http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2009/pdf/0904-05.pdf |title=連載 水の匠水の司 - 私説・井澤弥惣兵衛為永 - 第十三回 見沼代用水の開発 - 開削決水への道(4) - 竣工(水とともに 2009年4月号 NO.67) |publisher=独立行政法人水資源機構 |format=PDF |page=2 |accessdate=2018-06-05 }}</ref>。綾瀬川を越えたところで、流路は'''[[見沼代用水東縁]]'''と'''[[見沼代用水西縁]]'''の二手に分かれる。しかしこの懸渡井も[[1961年]](昭和36年)に伏越に改められて取り壊され、流路の分流も綾瀬川を越える手前になった。
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[[画像:東縁一の関.JPG|thumb|250px|[[見沼通船堀]]、東縁一の関(関は閘門のこと)]]
見沼用水路は、水田等の灌漑目的であったが、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。[[1730年]]に、新田の打ち出しに貢献があった鈴木家および高田家の願い出により、水運利用が許可された(参考、[[見沼通船]])。しかし、用水路は江戸まで直接つながっていない為、代用水と芝川を結ぶ[[運河]]である[[見沼通船堀]]が、[[1731年]]にやはり井沢弥惣兵衛の手によって作られている。代用水と芝川との高度差は
=== 伏越 ===
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[[画像:minumadaiyousui.jpg|thumb|right|180px|現在の用水(東縁)。さいたま市見沼区[[東宮下]]の梅ノ木橋付近。]]
[[ファイル:Saitama Minuma Canal In Saitama Green Trust 1.JPG|thumb|right|180px|さいたま緑のトラスト地を流れる見沼代用水(東縁)。]]
太平洋戦争後、用水路の近代化が進んだ。まず用水の取り込み口には、[[1963年]](昭和38年)に利根大堰が作られ、取水流量が正確に管理できるようになった。代用水路も、[[1979年]](昭和54年)から水資源開発公団(現・独立行政法人[[水資源機構]])などにより開始された'''埼玉合口二期事業'''によって、護岸と路底のコンクリート化(東縁代用水路のうち、さいたま市[[緑区 (さいたま市)|緑区]]の南部領辻地内の斜面林がある区間に関しては、「さいたま緑のトラスト基金」による保全第1号地として、コンクリート化を実施していない)や、遊歩道「[[緑のヘルシーロード]]」の整備などが進められた。[[1989年]](平成元年)には、西縁代用水路より[[荒川 (関東)|荒川]]へ送水する「荒川連絡水道専用水路」(約9.
また、埼玉県は東京都に近く、このため工場進出や宅地化が進んだ。代用水流域の水田も開発の需要が高まったが、一方で台風などが関東に上陸するたびに、代用水周囲の水田が遊水地の役割を果たしていることを理由に、開発消極派との意見対立が見られた。
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これを受けて、さいたま市は「見沼に100haの公園緑地帯を創出させる」という'''見沼セントラルパーク構想'''を打ち出し、その手始めとして、浦和・大宮・与野・岩槻の4市合併を象徴する公園を大宮区内に「[[合併記念見沼公園]]」として[[2007年]](平成19年)に開園した。その一方で、人間の手を一切加えるのをやめて自然の湿地帯にするという意見もある。
見沼代用水東縁の東京都[[足立区]]の部分のうち約
== 歴史 ==
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* [http://www.water.go.jp/kanto/tone/index.html 独立行政法人水資源機構利根導水総合管理所]
== 関連文献 ==
* {{Cite journal |和書|author =野崎雅秀|title =見沼代用水の舟運と商品流通|date =1997|publisher =交通史学会|journal =交通史研究|volume =38|doi=10.20712/kotsushi.38.0_16|pages =16-31|ref = }}
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.minuma-daiyosui-lid.or.jp/totikairyousisetu/yousuiro/minumadaiyousuinohazimari/minumadaiyousuinohazimari.html 見沼代用水路(水土里ネット見沼代用水)]
* [http://www.geocities.jp/fukadasoft/tonegawa/minuma/ 見沼代用水] -
* [http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/topics/yaso.html 水の匠 水の司 - 私説・井澤弥惣兵衛為永] - 独立行政法人水資源機構
* {{PDFlink|[http://www.city.kuki.lg.jp/kanko/kanko_info/map2/pdf/map8.pdf 「菖蒲3時間コース」 久喜市観光ウォーキングマップ]}} - 久喜市ホームページ
{{日本の農業用水}}
{{DEFAULTSORT:みぬまたいようすい}}
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