「吉川経家」の版間の差分
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同年2月、経家は鳥取城に入城する。鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、おおよそ4,000人であった。経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めたが、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しかなかった。これは因幡国内の米は秀吉の密命によって潜入した[[若狭国]]の商人によって全て高値で買い漁られ、その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払ったためであった。このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった。
6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の軍勢が因幡に侵攻
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に確認をとり、信長は経家の自害を許可した。
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