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=== 再起と敗北を重ねて ===
建安17年([[212年]])5月、馬超の反乱に連座する形で父と一族200人あまりが処刑された。馬超は羌族の兵を集めて隴上で蜂起し、郡や県のほとんどが馬超に呼応した。馬超は冀城に籠った[[涼州]]刺史の[[韋康]]を降伏させ騙して殺害し<ref>降伏すれば助命すると申し入れ、降伏した韋康らを援軍に来ていた張魯の将軍[[楊昂]]に処刑させたという(『三国志』魏志「楊阜伝」)。</ref>、冀城を根城にして同州の他の城を味方につけ、自らを征西将軍・并州牧・涼州の軍事総督と称した。
救援にやってきた夏侯淵を撃破し、[[テイ (民族)|氐]]族の千万・阿貴らを味方につけてその勢力を盛り返した(『三国志』魏志「武帝紀」)。しかし、韋康の復讐の為に挙兵した楊阜らの抵抗により冀城を奪われ、一族の多くを再び失い、漢中の張魯を頼って落ち延びていった。
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