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伊福部の伴造氏は、連のほかに、[[臣]]・[[キミ (カバネ)|君]]・[[キミ (カバネ)|公]]などがあり、一族には[[直 (姓)|直]]・[[首 (姓)|首]]・君姓のものも存在した。
 
[[奈良時代]]末期に成立した伊福部氏の系図、「因幡国伊福部臣古志」([[延暦]]3年ごろ成立)によると、物部氏の祖である[[伊香色雄]]の息子、武牟口命を祖先としている。[[日本武尊]]による征西の途中で、[[吉備津彦命]]、橘入来宿禰らとともに、稲葉夷住山の荒海という賊を征伐するために[[因幡国]]に立ち寄った、とある。息子の意布美宿禰の時、初めて「伊福部」を名乗る。その後、因幡[[稲葉国造]]も兼任した、とも言われており、[[允恭天皇]]に仕えた若子臣が、気を飄風にかえたという伝承も残されている。
 
26代目の[[伊福部都牟自|都牟自]](つむじ)は[[646年]]、[[孝徳天皇]]の[[大化]]2年、初めて水依評を設置し、[[評督]]に任命されている。その後、[[斉明天皇]]4年の冠位は[[大乙上]]で、同年正月には水依評のかわりに[[高草郡]]を設置した。同年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]、[[658年]][[4月18日]]に死去した。