「安久美神戸神明社」の版間の差分
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[[天慶]]2年([[939年]])11月、[[関東地方|関東]]において[[平将門]]が[[承平天慶の乱|乱]]を起こした。[[京都|京]]の[[朝廷]]は、[[参議]]の[[大伴保平]]を[[勅使]]として[[東海地方|東海]]の[[伊勢神宮]]へ派遣し、関東平定を祈願した。この霊験のおかげか、翌年2月関東の[[承平天慶の乱]]は直ちに平定することができた。天慶3年([[940年]])、関東鎮圧を喜んだ時の帝の[[朱雀天皇]]は[[三河国]][[渥美郡]]北端である[[豊川]]左岸の安久美(飽海)荘(豊橋市中心部)を伊勢神宮へ[[寄進]]した。そのため、この地は'''安久美神戸'''(あくみかんべ)という名の神領地([[神戸 (民戸)|神戸]])となる<ref group="注釈">これは既に現在の田原市神戸の地にあった本神戸(ほんかんべ、封戸数20戸:『新抄格勅符抄』収録の[[大同 (日本)|大同]]元年(806年)の牒による。)に対し、新神戸(封戸数10戸)と呼ばれた。また、三河では後の[[文治]]元年(1185年)に渥美郡大津郷(豊橋市老津町)に封戸を増加し、大津保と称した。</ref>。その時に伊勢神宮[[祭主]][[大中臣頼基]]の庶流・大中臣基守が磯部氏、川野氏、清水氏らを率いて[[伊勢国]]より来たり、この'''新神戸'''(しんかんべ)の屋代(やしろ)として創建されたのが当社である。
[[永正]]2年([[1505年]])、[[今川氏親]]の命によりこの地へ三河国[[宝飯郡]][[長山一色城]]([[豊川市]]牛久保町)主の[[一色時家]]被官・[[牧野古白]]によって今橋城(後の[[吉田城 (三河国)|吉田城]]。豊橋市今橋町)が築城された後も、歴代三河吉田城主の尊崇は篤かった<ref group="注釈">牧野古白は、安久美神戸神明社の造営のために寄進した。その際、[[明応]]6年11月17日([[1497年]]12月10日)銘の古棟札に「奉造立参川国於渥美郡新神戸郷社頭一宇棟上・・・」と記しており、'''新神戸'''の名称が知れる。</ref> <ref>牧野古白棟札→『豊橋市史』(第2節 戦国時代の豊橋地方)、pp.364-365</ref>。江戸時代には[[吉田城 (三河国)|吉田城]]内にあり、城内神明宮や吉田神明宮と呼ばれた<ref>{{Cite book|和書|author= |title=豊橋の史跡と文化財 |publisher=豊橋市教育委員会 |date=1981 |page=16 |isbn=}}</ref>。また、三河国を平定し後に[[征夷大将軍]]となった[[徳川家康]]も、当社の[[鬼祭]]を見物したとされる。神君の朱印をもって30石の社領を献じ、代々の征夷大将軍がこれを継承した<ref group="注釈">[[愛知県図書館]]所蔵絵図のうち、[[伊那県]]足助庁作成管理の三河国全図(明治2年頃)では、その記載が確認できない。元豊橋県管轄之図(明治4年頃)に、神明社とあり、他の寺社との位置関係から、これが安久美神戸神明社と思われる。ここでは単に神明社とだけあり、安久美神戸という表記はない。</ref>。[[明治]]18年([[1888年]])、軍用用地となったため現在の位置に移転した<ref>{{Cite book|和書|author= |title=豊橋の史跡と文化財 |publisher=豊橋市教育委員会 |date=1981 |page=16 |isbn=}}</ref>。神社名としては、神戸神社や吉田明神、吉田神明、吉田神明宮などの記録がある。明治維新時の宮号廃止により「神明社」となり、[[昭和]]26年([[1951年]])に「安久美神戸神明社」と改称した<ref>{{Cite book|和書|author= |title=安久美神戸神明社千年誌 |publisher=安久美神戸神明社 |date=1974 |page=34 |isbn=}}</ref>。
== 境内 ==
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