「スパーフベド」の版間の差分
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アルサケス朝の跡を継いだ[[サーサーン朝]]でもこの称号は維持された。しかしサーサーン朝期にスパーフベドという称号が使用されていたことを証明する同時代史料は非常に少なく、近年まで3世紀の碑文があるだけであった<ref name="Iranica"/>。シャープール1世の碑文に、[[アルダシール1世]](在位:224年-240年)の時代にRaxšという名前のスパーフベドが宮廷にいたことが記され、[[ナルセ1世]](在位:293年-303年)の碑文([[パイクリ碑文]])にもRaxšという名前のスパーフベドが記録されている<ref name="Iranica"/>。アルダシール1世とナルセ1世の治世は半世紀以上隔たっており、両者は同名の別人であると見られる<ref name="Iranica"/>。
[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]と[[シリア語]]の史料は6世紀初頭にその階級にあったかもしれない多数の上級役職者を記録している。502年から506年にかけての[[:en:Anastasian War|Anastasian戦争]]の間、ビザンツ帝国の諸局長官(magister officiorum<ref>役職の日本語名は{{Cite book |和書 |author=
何人かの現代の学者は''astabed''をビザンツ帝国の諸局長官(''magister officiorum'')に対応する新しい地位であり、恐らく[[カワード1世]]によって[[:en:Wuzurg framadar|Wuzurg framadar]]職の権威を弱めるために503年の直前に設置されたものであると解釈している。しかしこのシリア語の情報は、この名称がギリシア語の史料において二人目の交渉者にアスペベドゥス(''Aspebedus'')またはアスペティウス(''Aspetius'')という語形で割り当てられていることから、単に「''spāhbed''」か、または恐らく「''[[:en:aspbed|asp(a)bed]]''(騎兵隊長)」が訛った形態である可能性が高い<ref name="ASTABED">Chaumont (1987), pp. 825–826</ref><ref>Martindale, Jones & Morris (1980), p. 169</ref>。[[イベリア戦争]](526年-532年)の間、再び[[:en:Bawi|Bawi]]という名の人物が登場する。歴史家[[プロコピオス]]によれば彼は[[ホスロー1世]](在位:531年-579年)の母方のおじである。彼は527年にビザンツの使節との交渉に参加し、531年には彼は[[:en:Chanaranges|Chanaranges]]と[[:en:Mermeroes|Mermeroes]]と共に[[メソポタミア属州]]への侵攻を指揮した。彼は他の貴族と共にホスロー1世の兄弟の[[:en:Zames|Zames]]を支持し、ホスロー1世を打倒する計画を首謀していたため、ホスロー1世の王位継承直後に処刑された<ref name="ASTABED"/><ref>Martindale, Jones & Morris (1992), p. 137</ref>。
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