「日蓮宗不受不施派」の版間の差分

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==概要==
 桃山時代には関白[[豊臣秀吉]]が亡き母[[大政所]]の回向のための[[千僧供養]]に[[日蓮宗]]の僧侶も出仕を命じる事件が起きた(1595)。このとき日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする[[受不施派]]と、出仕を拒み[[不受不施義]]の宗規を守ろうとする[[不受不施派]]に分裂した。そして京都妙覚寺の[[日奥]]がただ一人出仕を拒否して[[妙覚寺]]を去った。さらに[[徳川家康]]は大阪城で日奥と日紹(受不施派)を対論させ(大阪城対論)、権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした(1599)。日奥は十三年後赦免されて妙覚寺に戻った。
 江戸時代に入ると[[身延山久遠寺]](受不施派)の日暹が、日奥の弟子である武蔵国[[池上本門寺]](不受不施派)日樹が身延山久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え(1630)、幕府の命により両派が対論する事件が起きた(身池対論)。しかしこのとき身延山久遠寺側は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強いコネクションをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。このとき日奥は再び対馬に配流されることになったが、既になくなっており、遺骨が配流されたとされる。
 そして幕府は、寺領を将軍の寺に対する供養とし、道を歩いて水を飲むのも国主の供養であるという「[[土水供養論]]」を展開し不受不施派に対し寺請も認めない(不受不施派寺請禁止令)など、禁制宗派とした(1665)。このとき安房小湊の誕生寺など一部のものは寺領を貧者への慈悲と解釈して表向き幕府と妥協する「悲田派」と称する派をたて秘かに不受不施の教義を守っていたが、これもれ発覚し関係者は流罪に処せられた(1691)。