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[[呉 (三国)|呉]]の薛瑩の子として生まれた。呉が滅びると、薛兼は[[西晋]]により[[散騎常侍]]の位を受けた。若くして[[紀瞻]]・[[閔鴻]]・[[顧栄]]・[[賀循]]らと名声をひとしくし、「'''五俊'''」と号された。初めて[[洛陽]]に入ると、[[司空]]の[[張華]]と面会して、「みな南の金なり」と評された。[[河南郡]]の孝廉に察挙され、公府に召された。比陽国の相に任じられ、有能なことで知られた。太子洗馬・散騎常侍・[[武陟県|懐県]]県令を歴任した。東海王[[司馬越]]に召されて司空参軍となり、祭酒に転じ、安陽亭侯の爵位を受けた。琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]が安東将軍となると、薛兼はその下で軍諮祭酒となり、しばらくして丞相長史に転じた。爵位を安陽郷侯に進め、[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]][[太守]]に任じられた。[[東晋]]が建てられると、薛兼は丹陽尹に転じ、秩中二千石を加えられた。尚書に転じ、太子少傅を兼ねた。祖父の薛綜から薛兼にいたるまで、三代にわたって[[皇太子]]の傅役をつとめたため、当時の評価は高かった。
 
[[永昌 (東晋)|永昌]]元年([[322(322]])、[[王敦]]に推挙されて[[太常]]となった。[[明帝 (東晋)|明帝]]が即位すると、散騎常侍の位を加えられた。薛兼は明帝の皇太子時代の師傅だったことから、格別の畏敬を受けた。この年のうちに死去した。左光禄大夫・[[開府儀同三司]]の位を追贈された。[[王敦の乱]]のため、朝廷は混乱しており、[[諡]]の議論はおこなわれなかった。
 
子に薛顒がいたが、薛兼に先だって死去しており、後嗣はなかった。娘は孫倹([[孫秀 (孫呉)|孫秀]]の子)に嫁いで、[[孫晷]]を産んだ。