「第二次世界大戦の背景」の版間の差分

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なぜズデーテン地方がチェコ領になっている理由は以下の通りである。
 
1918年10月28日にドイツ内のチェコスロバキア独立派の[[エドヴァルド・ベネシュ]]はチェコスロバキアの独立を宣言した。それに対し現地の在住のドイツ人は翌10月29日にドイツ人帝国議会議員が中心として、エーガラントと北ボヘミアに「{{仮リンク|ドイツ系ボヘミア州|de|Provinz Deutschböhmen|cs|Německé Čechy|en|Province of German Bohemia}}」の成立を宣言したものの、[[チェコ軍団]]が侵攻を開始し、ドイツ系ボヘミア州政府はドイツへ亡命した。こののちに開かれた[[パリ講和会議]]ではアメリカ合衆国は民族自決の概念からドイツへの編入を要望し、オーストリアはチェコへの編入に強く反対していた。しかしフランスの要求が通り、ドイツ系ボヘミア州はチェコスロバキアの領土となることが確定した。この一連のチェコスロバキア政府の行動にヒトラーは納得がいかなかった。そこで英仏との間でヒトラーは強引ともいえる要求と、戦争を避けようとする宥和政策との間で駆け引きが続けられた。1938年9月に開催された[[ミュンヘン会談]]で、[[ネヴィル・チェンバレン]]英首相と[[エドゥアール・ダラディエ]]仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協した。こうしてチェコスロバキア政府の意向は英仏独によって完全に無視され、チェコスロバキアは解体され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とした。この一連の行動で、ハンガリー及びポーランドも領土を獲得した。
 
====ダンツィヒ帰属問題====
ヒトラーは[[ベルサイユ体制]]の不当項目解消の最終目的であったダンツィヒを含めた、ポーランド回廊を要求した。当時のダンツィヒは人口の約95%をドイツ人が占め、現地ドイツ人は民族自決の原則に従ってドイツへの帰属を求めていた。このダンツィヒをめぐる外交にはドイツ・イギリス・フランスのほかローマ法王や、ムッソリーニ、ベルギー国王などが参加しており最後にはアメリカのルーズベルトも参加していた。{{sfn|ルーズベルトの開戦責任|p=198}}