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=== 社会的背景 ===
[[File:Women-Only Car Sticker.JPG|thumb|left|220px|女性専用車両の表示。]]
2000年代においてオタク文化は一貫してフェミニズム的な批判に晒されてきた。しかし、「男の娘」はもはや少女を欲望の対象にしていない点で、これまでのオタク文化の欲望とは一見異なるように見える。
 
現代の百合ブームは男性読者も支持している点が大きく異なる。久米依子は、オタク男性たちには「少女のコミュニティに紛れ込み戯れたいという願望が潜んで」いると述べている{{Sfn|樋口|2015|p=87}}。樋口は「〈百合〉文化を受容したオタク男性たちは、〈少女〉を賛美する文化において、〈少女〉の清らかさに同一化した果てに、男性性を醜いものとして嫌悪して「所有」の欲望を廃棄し、〈少女〉に「なりたい」という憧憬の欲望を持つに至った」と説明している{{Sfn|樋口|2015|p=88}}。男がそういう願望を抱くのは変だという「男らしさ」の規範が、これまでそうした欲望を抑圧してきたにすぎないというのである{{Sfn|樋口|2015|p=87}}。「女の子になりたい」という願望が、客体化する方向において広範な支持を獲得したものが、二次元の「男の娘」であるとしている{{Sfn|樋口|2015|p=91}}。
 
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== 評価・影響 ==
泉信行は、「男の娘」という言葉が用いられているとき、実は「女子に見えるという状況とは何か」こそが問われているキャラクターだと指摘している。泉は「男の娘」は「女子(美少女)とはこういうものだ」という強い規範・理想の上に成り立っていると主張する。樋口康一郎登場は、「男の娘」は美少女キャラクターを中心とするサブカル分野に大きなインパクトを与えた。2000年代においてオタク文化は一貫つつてフェミニズム的な批判に晒されてきたが、「男の娘」はもはや少女を欲望の対象にしていない点で、驚きを与えたためであった{{Sfn|樋口|2015|p=85}}。樋口康一郎は、実際にはこの表象は、オタク男性たちの性的嗜好の根本的な変化が現れたものではなく、彼らの文化の前提となってきた異性愛の、あくまで延長線上に出現したものに過ぎないと論じる{{Sfn|樋口|2015|p=85}}。「男の娘」はジェンダーとしての女性性に対する保守的な価値観がなお残存していることを、逆説的に物語っていると指摘している。泉信行も、「男の娘」という言葉が用いられているとき、実は「女子に見えるという状況とは何か」こそが問われていると指摘している。泉は「男の娘」は「女子(美少女)とはこういうものだ」という強い規範・理想の上に成り立っていると主張する。
 
吉本は、特に二次元の「男の娘」により「男でもかわいければよい」「むしろ男だからよい」という考えが広まったとし、同性愛を無条件に忌避していた状況に変化が現れていると述べる。一方、「男の娘」はあくまで性的に消費される対象であることにも注意を促しており、「そこには消費する男性>消費される「男の娘」という、不均衡な関係が内包されている」と論じている。そして三次元の「男の娘」においても、この不均衡の存在は無視しがたいであろうとしている。
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| [[バカとテストと召喚獣]]
| 木下秀吉
| 樋口康一郎{{Sfn|樋口|2015|p=85}}
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| [[おと×まほ]]
| 白姫彼方
| 樋口康一郎{{Sfn|樋口|2015|p=85}}
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| [[僕は友達が少ない]]
| 楠幸村
| 樋口康一郎{{Sfn|樋口|2015|p=85}}
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426 ⟶ 424行目:
| [[これはゾンビですか?]]
| 相川歩
| 樋口康一郎{{Sfn|樋口|2015|p=85}}
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452 ⟶ 450行目:
| [[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている]]
| 戸塚彩加
| 樋口康一郎{{Sfn|樋口|2015|p=85}}
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458 ⟶ 456行目:
| [[俺、ツインテールになります。]]
| 観束総二
| 樋口康一郎{{Sfn|樋口|2015|p=85}}
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