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==== 室町・戦国時代 ====
[[建武の新政]]下では、[[後醍醐天皇]]や[[新田義貞]]に従い、東海・東山両道から[[足利尊氏]]追討軍に参加し、[[建武]]2年([[1336年]])の[[矢作川の戦い]]などに参戦したが([[建武の乱]])、結果として敗北した。[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の争いには南朝に属し、仁科盛宗は国司[[藤原光継|堀河光継]]に従ってい、[[近江国]]坂本に参陣した。仁科氏重は、[[湊川の戦い]]後に比叡山に逃れる後醍醐天皇に随身した。[[貞和]]4年(1345年)には越後国沼川において新田氏の挙兵に参加したが、同国守護代の長尾氏に鎮圧された。また信濃では[[宗良親王]]を奉じ、[[文和]]元年([[1352年]])の[[武蔵野合戦]]に出陣したが敗北した。その翌年には、北朝側の[[守護]][[小笠原長基]]と争ったが、南朝衰亡によって北朝に帰属した。一族の[[仁科重貞|重貞]]は上洛して後醍醐天皇に随身している。その後の[[大塔合戦]]では盛房が大文字一揆衆を率いて守護軍を圧倒し、[[小笠原長秀]]を[[信濃国|信濃]]から追い払う活躍を見せる{{Sfn|信濃郷土研究会|1932|p=}}{{Sfn|信濃史料編纂会|1969|p=}}。
 
[[応仁]]元年([[1467年]])からの[[応仁の乱]]では東軍([[細川勝元]])につく。[[文明 (日本)|文明]]12年([[1480年]])には盛直が[[小笠原長朝]]と[[穂高川]]で戦って敗れたが(穂高合戦)、翌文明13年([[1481年]])[[諏訪氏]]に従って長朝の軍を破った。また、[[長享]]元年(1487年)からの[[長享・延徳の乱]]では、将軍[[足利義尚]]の近江守護[[六角高頼]]征討に出陣して戦功を挙げた。明盛も[[永正]]10年([[1513年]])に将軍[[足利義稙]]が六角征討を再開すると近江に出陣した。