「世界ラリー選手権」の版間の差分
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=== WRC草創期 ===
[[Image:Lancia-Stratos-HF-Group-4-'.jpg|thumb|right|200px|ランチア・ストラトス]]
1973年のWRC創設から1980年代初頭までは
目敏い[[ランチア]]はグループ3のパワートレインだけを抜き取ったような、[[ミッドシップ]]のグループ4マシン・[[ランチア・ストラトス|ストラトス]]を生産し、WRCを席巻。マニュファクチャラーズ選手権を3連覇した。しかしあまりに市販車と乖離していることから宣伝にならないと親会社の[[フィアット]]が難色を示し、ランチアの代わりにフィアット([[アバルト]])が前面に出ることとなった。ここに[[フォード]]、[[オペル]]、[[タルボ]]などが絡む形となっていった。
この頃のラリーカーはほとんどが[[二輪駆動|2WD]]であったが、1981年にフルタイム[[四輪駆動|4WD]]とターボエンジンを採用した[[アウディ・クワトロ]]が登場してラリーを席巻し、その後のラリーカーの方向性を決定づけた{{R|msarchive-4-wrc}}。その後グループ1 - 8規定を廃止し、1983年から新規定に移行することが発表された。1982年は新旧両規定に基づいた車両が使える移行期間であった。▼
▲この頃のラリーカーはほとんどが[[二輪駆動|2WD]]であったが、1981年にフルタイム[[四輪駆動|4WD]]と[[ターボ]]エンジンを採用した[[アウディ・クワトロ]]が登場してラリーを席巻し、その後のラリーカーの方向性を決定づけた{{R|msarchive-4-wrc}}。その後グループ1 - 8規定を廃止し、1983年から新規定に移行することが発表された。1982年は新旧両規定に基づいた車両が使える移行期間であった。
===グループB時代 (1982年 - 1986年)===
[[ファイル:Audi Quattro A2 20060407.jpg|thumb|left|200px|アウディ・クワトロ A2]]
グループ1-8と複雑になっていた規定がグループN、A、B、C、D、E、F、Tに簡素化され、このうち
グループB規定により走行スピードは劇的に向上したが、安全面がその進化に追いつかず、多くの事故と犠牲者を生み出すこととなった{{R|msarchive-4-wrc}}。1985年ツール・ド・コルスでのランチアの[[アッティリオ・ベッテガ]]の事故死、同年アルゼンチンラリーでのプジョーの[[アリ・バタネン]]の事故、1986年ポルトガルラリーでフォードからワークスエントリーしていたヨアキム・サントスが多数の観客を死傷させるなど、ワークスドライバーが絡む事故が多発。そして、1986年のツール・ド・コルスで発生したランチアの[[ヘンリ・トイヴォネン]] / セルジオ・クレスト組の事故死を受けて、FIAは事故の翌日に以後のグループB車両の[[ホモロゲーション]]申請を却下することを発表し、その後1986年を以てグループBの廃止を決定{{R|msarchive-4-wrc}}<ref group="注">グループB車両の全てが出場不可となった訳ではなく、300 PS以下のB車両は1987年以降も出走は可能だった。実際、小排気量のグループB車両はポイント対象外ながら、ホモロゲーションの切れる1990年代までプライベートチームが走らせる姿を見ることが出来た。[[ポルシェ・959]]などもグループB参加車両として開発されていたが、ベース車の生産・販売の問題や莫大な競技参加費用が掛かるなどの様々な事情があり、更にグループBの廃止の煽りを受けてこれらの車が実際の競技に参加することは無かった。</ref>、翌1987年からは世界選手権はそれまで下位クラスであった[[グループA]]で行われることを発表、同時にグループS構想も消滅した。
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トヨタは[[トヨタ・セリカ|セリカ]]でランチアの厚い壁に挑み続けて遂に撃破し、日本車としては初のドライバーズおよびマニュファクチャラーズ選手権{{R|msarchive-4-wrc}}を制覇した。また[[富士重工業|スバル]]は[[スバル・インプレッサ|インプレッサ]]で1995年 - 1997年にマニュファクチャラーズ・タイトルを3連覇{{R|msarchive-4-wrc}}、[[三菱自動車工業|三菱自動車]]の[[三菱・ランサーエボリューション|ランサーエボリューション]]が1996年 - 1999年にドライバーズ・タイトルを4連覇するなどし{{R|msarchive-4-wrc}}、1990年台後半は日本車勢がタイトルを総舐めにした。
一方グループAの2,500台(1992年までは5,000台)という最低生産台数と市販車に近い規則が負担となり、高性能4WDを市販車のラインナップに持たないメーカーは撤退の一途を辿っていたため、より参戦の門戸を広げる必要があった。こうして1995年にはフランスメーカーたちの提案により、FIA 2リッターワールドカップ向けに、改造範囲の広い2WD/NAエンジン車のF2キットカー規定が導入された。この動きは将来のWRCの2WD化を見越してのものであったが、既存のメーカーたちから反発を受けて、結果F2キットカーの4WDターボ版とも呼べる[[ワールドラリーカー]] (WRカー) 規定が1997年より導入されることで決着した{{R|msarchive-4-wrc}}<ref>{{Cite journal|和書|journal=モータースポーツアーカイブ |volume=7 |publisher=公益社団法人自動車技術会 |year=2019 |title=90年代WRCにおけるトヨタ黄金時代 そのバックグラウンド [後編] |author=松井誠 |url=https://www.jsae.or.jp/katsudou/docu/1045/motorsports_archives07.pdf |format=PDF |page=8}}</ref>。F2キットカー規定はその後規制緩和により戦闘力が向上し、1999年には[[フィリップ・ブガルスキー]]がターマックでWRカーをも下して2勝を挙げる活躍を見せたが、これをきっかけに重い性能調整を受けて衰退。2WD規定はスーパー1600へと発展し、現在の
1997年にほとんどのメーカーがWRカーに移行する中、三菱だけはグループAに留まり、1998年に初のマニュファクチャラーズタイトルを、1999年もドライバーズタイトルを勝ち取るなどの戦果を挙げ、2001年半ばまでグループAで戦い続けた。
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