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{{by|2000年}}は[[スプリングトレーニング]]で[[ホセ・メサ]]とクローザーの座を争い、開幕5日前の3月30日にクローザーに指名される。4月5日の[[ボストン・レッドソックス]]戦でメジャー初登板。この時[[T-モバイル・パーク|セーフコ・フィールド]]の電光掲示板には「ようこそマリナーズ 大魔神」という日本語の電光文字と共に“DIAMAJIN”と文字が逆に表示されるハプニングもあった。しかし5月10日の[[テキサス・レンジャーズ]]戦で[[デビッド・セギー]]に(1991年に[[落合博満]]に打たれて以来となる)サヨナラ本塁打を打たれ、12日の[[オークランド・アスレチックス]]戦でも[[マット・ステアーズ]]にサヨナラ本塁打を打たれて中継ぎに降格。しかしその後クローザーを務めたホセ・メサも23日の[[ボルチモア・オリオールズ]]戦でサヨナラ本塁打を打たれたため、再びクローザーとして起用される。6月6日の[[コロラド・ロッキーズ]]戦では[[村上雅則]]と[[長谷川滋利]]に並ぶ日本人最多タイの9セーブ目を記録し、12日の[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]戦で日本人最多の10セーブ目を挙げた。[[2000年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されることはなかったが、出場選手全員のサインがされた佐々木のユニフォームを[[アレックス・ロドリゲス]]から貰い、「一生の宝物です」とコメントした。
ポストシーズンでは、4試合に登板し無失点の投球で3セーブを挙げたが、チームは[[ニューヨーク・ヤンキース]]との[[2000年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]で敗退した。レギュラーシーズンでは最終的にリリーフ投手中リーグ1位の奪三振率11.20、同6位のWHIP1.16の投球でメジャー新人記録の37セーブ({{by|2010年}}に[[ネフタリ・フェリス]]が40セーブを挙げ更新)を挙げ、[[アメリカンリーグ]][[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|新人王]]に選ばれた。
{{by|2001年}}4月16日の[[ロサンゼルス・エンゼルス|アナハイム・エンゼルス]]戦では自己最速となる96mph(約154km/h)を記録するなど好調なスタートを切り、4月のメジャー最多記録となる月間13セーブを挙げる。5月29日のオリオールズ戦では1994年に[[リー・スミス]]が達成したチーム46試合目に次ぐ史上2位のチーム50試合目での20セーブ到達を達成し、5月終了時点で21セーブと最多セーブは確実と見られていた。しかし、7月2日に29セーブ目を挙げて以降はセーブ機会が減り、[[2001年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されセーブを記録した他、8月2日の[[デトロイト・タイガース]]戦でNPB/MLB通算300セーブを、8月3日の[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]戦でメジャー2年目での[[アメリカンリーグ]]全チームからのセーブを、8月18日の[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦で当時の球団新記録となる38セーブをそれぞれ達成するも、終盤には右大腿を痛め調子を崩し[[マリアノ・リベラ]]に5セーブ差のリーグ2位に終わった。レギュラーシーズン最終登板となった10月6日のレンジャーズ戦ではMLBタイ記録となるチーム116勝目を45セーブ目で飾り、「こんな試合を締めくくれたのは光栄です」と語った。
ポストシーズンでは、4試合の登板で1セーブを挙げ、[[奪三振率]]13.63の快投を見せるが、ヤンキースとの[[2001年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]第4戦では自己最速タイとなる96mph(約154km/h)を記録するも、[[アルフォンソ・ソリアーノ]]にサヨナラ2点本塁打を打たれ、敗戦投手となり、チームは翌日の試合にも負けて敗退した。これが(その後低迷した)マリナーズがポストシーズンを戦った近年最後の試合で、結局、佐々木は[[ワールドシリーズ]]で登板する機会はなかった。オフにはシーズン終了報告で任天堂の本社を訪れ、メジャー移籍を目指していた[[谷繁元信]]の獲得を進言したが、入団には至らなかった。
{{by|2002年}}は夫人の病気により一時は日本に帰国したが、6月1日まで自責点0と好投を続けた。6月26日のアスレチックス戦で19セーブ目を挙げ、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。[[2002年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]にも前年に続き2年連続で選出され、メジャー自己ベストの防御率2.52を残す。しかし後半は右肘を痛めてやや調子を崩し、自己ワーストとなる救援失敗8度を記録。レギュラーシーズン終了後は「アメリカ(MLB)にいるとテレビ(プレーオフ)を見てしまい、ポストシーズンに出場できなかった悔しさが倍増してしまう」と、10月上旬に帰国。
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ウェイバー公示後には古巣・横浜以外にも[[読売ジャイアンツ]](巨人)・[[北海道日本ハムファイターズ]]が獲得を検討したが{{R|スポニチ2004-01-29}}、佐々木自身は退団表明以前から「もし日本に戻るなら(入団先は)ベイスターズしかない」と明言していた{{Efn2|佐々木はマリナーズ時代の2002年10月13日に行われた[[野村弘樹]]の[[引退試合]]で[[砂原幸雄]]オーナー([[TBSテレビ|TBS]]会長 / TBSは同年から横浜球団のオーナー企業)と初対面した際、将来的に横浜に復帰したい意向を直訴していた<ref>{{Cite news |title=大魔神復帰へ横浜オーナー直接出馬 |newspaper=Sponichi Annex |date=2004-01-31 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2004/01/31/03.html |author= |accessdate=2004-02-19 |publisher=日刊スポーツ新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040219155722/http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2004/01/31/03.html |archivedate=2004年2月19日}}</ref>。}}<ref name="サンスポ2004-01-13">{{Cite news |title=魔神が古巣へ復帰?「もしならばベイスターズしかない」 |newspaper=SANSPO.COM |date=2004-01-13 |url=http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200401/mt2004011301.html |author=阿見俊輔 |accessdate=2004-01-14 |publisher=産業経済新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040114052827/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200401/mt2004011301.html |archivedate=2004年1月14日}}</ref>。巨人は1月30日、いったんは[[堀内恒夫]]監督が佐々木獲得に動くことを明言したが、その2時間後にはフロントが獲得断念を決定した<ref name="スポニチ2004-01-31">{{Cite news |title=巨人 大魔神獲りでドタバタ撤退 |newspaper=Sponichi Annex |date=2004-01-31 |url=http://www.sponichi.co.jp/usa/kiji/2004/01/31/01.html |author= |accessdate=2004-02-18 |publisher=日刊スポーツ新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040218193140/http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2004/01/31/01.html |archivedate=2004年2月18日}}</ref>。また日本ハムも[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]へ佐々木の身分照会を行ったが<ref>{{Cite news |title=日本ハムも佐々木の身分照会へ |newspaper=Sponichi Annex |date=2004-01-30 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/20040130135229.html |author= |accessdate=2004-02-22 |publisher=日刊スポーツ新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040222070127/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/20040130135229.html |archivedate=2004年2月22日}}</ref>、佐々木は2月2日になって日本ハムに断りの連絡を入れた<ref>{{Cite news |title=【プロ野球】佐々木の横浜復帰が決定-3日入団発表、背番号22 |newspaper=SANSPO.COM |date=2004-02-02 |url=http://www.sanspo.com/sokuho/0202sokuho092.html |author= |accessdate=2004-02-04 |publisher=産業経済新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040204010332/http://www.sanspo.com/sokuho/0202sokuho092.html |archivedate=2004年2月4日}}</ref>。
{{by|2004年}}2月3日に5年ぶりの横浜復帰が発表され<ref>{{Cite news |title=“大魔神”横浜復帰「愛着あった」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2004-02-03 |url=http://www.nikkansports.com/ns/baseball/f-bb-tp0-040203-0038.html |accessdate=2004-02-18 |publisher=日刊スポーツ新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040218131115/http://www.nikkansports.com/ns/baseball/f-bb-tp0-040203-0038.html |archivedate=2004年2月18日}}</ref>、2年総額13億円で契約を締結した{{Efn2|当時、背番号22は[[吉見祐治]](東北福祉大の後輩)が着用していたが、佐々木(22を着用)の復帰に伴い「21」に変更した{{R|サンスポ2004-02-04}}。またこれに伴い、[[若田部健一]](背番号21)も背番号を「14」に変更した{{R|サンスポ2004-02-04}}。}}<ref name="サンスポ2004-02-04">{{Cite news |title=佐々木2年13億円!「もう一度横浜で日本一になる」 |newspaper=SANSPO.COM |date=2004-02-04 |url=http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200402/bt2004020401.html |author=後藤茂樹 |accessdate=2004-04-05 |publisher=産業経済新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040405001714/http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200402/bt2004020401.html |archivedate=2004年4月5日}}</ref>。[[エディ・ギャラード]](前年途中に中日から移籍)と抑えの座を競い<ref>{{Cite news |title=デイリーベイスターズ 大魔神が帰ってきた<中> |newspaper=[[神奈川新聞]] |date=2004-02-06 |url=http://www.kanagawa-np.co.jp/yb/yb04020601.html |author=[[石橋学]] |accessdate=2004-02-12 |publisher=神奈川新聞社 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040212040759/http://www.kanagawa-np.co.jp/yb/yb04020601.html |archivedate=2004年2月12日}}</ref>、4月6日の阪神戦(横浜スタジアム)で1点リードの9回表に復帰後初登板を果たし、日本での通算230個目となるセーブを挙げた<ref>{{Cite book |和書 |author=[[やくみつる]] |title=やくみつるの平成ポテンショット |publisher=[[日刊スポーツ]] |year=2009 |isbn=978-4-8172-5454-2 |page=15}}</ref>。球威は衰えていたが、数種類に変化するフォークボールと絶妙なコントロールで安定した成績を挙げていた。ただし、[[山下大輔]]監督の意向からなのかセーブ機会以外ではほとんど起用されず、チームにセーブ機会がないときは10試合以上登板がないこともあり8月になっても35試合以上に登板していないという状態になった。前半戦は好調を維持していたが、8月4日の[[中日ドラゴンズ]]戦、7日の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦と連続して救援に失敗すると翌8日のヤクルト戦では[[土橋勝征]]、[[岩村明憲]]、[[古田敦也]]に3連続本塁打を打たれて逆転負けを喫する。突如として度重なる救援失敗を繰り返したことで11日、引退の意向を球団に伝えるが慰留を受けて後に撤回<ref>{{Wayback|url=http://www.kanagawa-np.co.jp/yb/yb04083102.html|title=佐々木、来季目指し手術へ|date=20041011163246}}</ref>。1ヶ月前から指先の感覚が麻痺し騙し騙しで登板を続けていたが、骨棘が肘の神経を圧迫していたのと尺骨神経剥離が原因で、この年はそれ以降登板することはなく、来シーズンのため9月2日に手術に踏み切った<ref>{{Wayback|url=http://www.kanagawa-np.co.jp/yb/yb04090202.html|title=佐々木、きょう手術|date=20041019001500}}</ref>。結局25試合の登板で1勝2敗19セーブ、防御率3.18とやや物足りない成績となった。
{{by|2005年}}4月2日の中日戦でシーズン初登板するも[[高橋光信]]に逆転サヨナラ2点本塁打を打たれて敗戦投手になる。4月10日の阪神戦(甲子園)でも9回裏に[[藤本敦士]]にサヨナラ安打を打たれて敗戦投手となった<ref>{{Cite book |和書 |author=[[やくみつる]] |title=やくみつるの平成ポテンショット |publisher=[[日刊スポーツ]] |year=2009 |isbn=978-4-8172-5454-2 |page=72}}</ref>。4月13日のヤクルト戦でシーズン初セーブを挙げ、翌14日は[[高津臣吾]]に次いで史上2人目となる通算250セーブを挙げて<ref>{{Cite book |和書 |author=[[やくみつる]] |title=やくみつるの平成ポテンショット |publisher=[[日刊スポーツ]] |year=2009 |isbn=978-4-8172-5454-2 |page=71}}</ref>一旦持ち直したように思えたが、4月21日のヤクルト戦でサヨナラ負けで敗戦投手になり、この時点で8試合0勝3敗4セーブ防御率9.53の成績となり二軍落ちした。この3敗は全て逆転サヨナラ負けである。その後、復帰を目指して調整を続けていたが調子は上がらず、さらにその間に[[マーク・クルーン]]が抑えに台頭したこともあり、チームの戦力構想から外され、8月7日に現役引退を表明。「お袋の前で投げたい」との希望により、2日後の9日、故郷・[[仙台市|仙台]]の[[宮城球場|フルキャストスタジアム宮城]]で行われた[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で、高校時代からのライバルで親友でもある[[清原和博]]相手に、事実上の引退登板をした(結果は三振)<ref>[http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/giants/entry-67747.html 清原号泣、さらば大魔神 2005年08月10日] - 清原特集 巨人復刻ニュース : nikkansports.com</ref>。佐々木は球団との契約を盾に[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]]のユニフォームを着用せず、[[イースタン・リーグ]]での調整登板もしていない状態であることから、横浜の[[牛島和彦]]監督はゲームに影響が出ないよう、普段は救援投手である[[秦裕二]]を先発させ、清原の第1打席で佐々木を投入。清原の打席後、改めて本来の先発投手[[門倉健]]を登板させるという継投策を取った。この投手起用について牛島は試合前、巨人の[[堀内恒夫]]監督に「お騒がせして申し訳ない」と謝罪した。この引退登板については公式戦の私物化と非難する意見もあり、チーム内でもこの件に関し、[[野村弘樹]]一軍投手コーチと[[福田功]]一軍ヘッドコーチの間で対立が生じた。ちなみにこの仙台での試合は巨人の主催で開催されており、余計に物議を醸した。
10月8日の本拠地[[横浜スタジアム]]でのヤクルト戦で最終登板する予定だったが、今日の試合での登板はチームに迷惑をかけるとして自ら辞退し、セレモニーのみが行われた。この時の挨拶で「生涯野球人であることを誓います」と述べた。
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