「オーロラ号の漂流」の版間の差分

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マクマード入江: 修正と英語のままだった注釈の訳
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== マクマード入江 ==
=== 冬の停泊 ===
オーロラ号は1915年1月にマクマード入江に到着したが、オーストラリアを出発するのが遅れたために、南極での活動シーズンとしては遅い時期だった。予定から見れば3週間遅れていたので、マッキントッシュは補給所設置する作業をぐにも始めるべきと判断し<ref name="TL66">Tyler-Lewis, p. 66</ref>、それ自ら指揮自分で実行することにした。1月25日まで、初期犬ぞり隊の1つを率い、ステンハウス船の指揮官に残を任せ、犬ぞりの先発隊の1つを率いて出発した。マクマード入江が冬に向かっの間氷結し凍るしまう前のわずか数週間のうちに、ステンハウスは残りの陸上部隊と物資の陸揚げを監督する必要があった。また、冬の間安全に船を係留する場所を見つけねばならなかった。マッキントッシュは、船を離れる際、これが最優先課題だと明確に指示していた<ref>Tyler-Lewis, p. 112</ref>。
 
[[ファイル:Possible Aurora Mooring Sites.jpg|thumb|left|凍ったマクマード入江を上空から見たところ。氷舌の先にハットポイント(右下のA点)、エバンス岬(左上のB点)が見られる]]
冬季にマクマード入江で唯一安全な冬季係留場所できるして知られ分かっていた場所は、スコット[[ディスカバリー遠征]]で最初に使ったハットポイントの基地だけであった。この基地は、マクマード入江を2つに分断す[[エレバス氷舌という突出部]]の南あっ置かれた。しかしただ、スコットの船は2年間氷に閉じ込められており、それを解放するために2の救援船と何度かが出て、爆薬による氷探検粉砕がを必要としわれた。シャクルトンはこのような事態絶対に避けるこようとしており、マッキントッシュには氷舌より北で越冬するよう明確な指示を与え、それがステンハウスに伝えられていた<ref name="TL114">Tyler-Lewis, pp. 114–16</ref>。それまでこの湾の露出した北部で越冬した船は居らずなくそうするような判断について、経験のある水夫のアーネスト・ジョイスやジェイムズ・ペイトン個人的な日誌で題にされ視する記述を残してい<ref>Tyler-Lewis, p. 68</ref><ref>Tyler-Lewis, pp. 120–21 and p.126</ref>。遠征が終わった後で、ロス海支隊の救援隊を率いたジョン・キング・デイビスは、シャクルトンの指示が無視されるべきであり、ステンハウスはオーロラ号を凍り付かせが氷に閉じ込められ危険可能性があったとしても、ステンウスはシャクルポイ指示を無視し、安全な地点ハットポイントオーロラ号をしておく動させるべきであったと、遠征が完了した後に記してい<ref>Tyler-Lewis, p. 221</ref>。
 
当初、ステンハウスは最初にエレバス氷舌そのもの自体の北側に船を停泊させようとした<ref>Haddelsey, p. 43</ref>。風向きが変わり、氷舌と前進し近づいてくる叢氷の間にオーロラ号が閉じ込められる危険性があそうになったのをやっとわすろうじてとができれを回避した<ref>Tyler-Lewis, pp. 118–19</ref>。他の選択肢をいくつか検討したが却下し、果、最終的に以前にスコット大佐がテラノバ遠征で使った基地としたエバンス岬沖で停泊することに決めた。氷舌の北約6海里 (11&nbsp;km) の位置だった<ref>スコットのテラノバ号は、ここで隊を上陸させた後、ニュージーランドで越冬した。また、シャクルトンのニムロド号(1907年から1909年の遠征)でも同様であった。Tyler-Lewis, p. 114</ref>。3月14日、ステンハウスは何度も失敗やり直した後で<ref>Fisher, p. 402</ref><ref>Bickel, pp. 69–70</ref>、ステンハウスはオーロラ号を所定の位置に操船し、エバンス岬のある岸に対して船尾を向けた位置につけ、2つの大きな錨を投じて海底に固定した。錨は錨索と太綱、それに太い鎖と共よって船尾に付けらつながれた。主錨鎖も2つ落とされた。3月14日までのうちに、二等航海士のレスリー・トンプソンの言葉れば船は岸の氷に収まり、「戦艦を保持できるほどの太綱と錨使わで船が岸の氷に固定されていた<ref>Tyler-Lewis, p. 123</ref>。
 
=== 暴風による漂流開始 ===
エバンス岬の隠れ場所むき出し無い停泊地は、オーロラ号を冬の厳しい気象に完全に曝すことになった。4月半ばまで「難破船」のようになっており、右舷側に大きく傾き、氷がその周りを動くと激しい衝撃や振動が伝わっていた<ref name="Tyler-Lewis_125–27">Tyler-Lewis, pp. 125–27</ref>。気象が許すときは、陸上部隊と、さらの通信を可能する無線用アンテナを張る試みが行われた。アンテナは、後にオーストラリアやニュージーランドとの通信を可能する無線用アンテナを張ろも使という試みが行われ考えであった<ref name="Hadd49">Haddelsey, pp. 48–49</ref>。補給所にためにで運ぶ隊用の食料で船内にりがっていた分は岸に揚げられたが<ref name="Hadd49"/><ref>これ以外の分はすでに陸揚げして小屋で保管されていた。Tyler-Lewis, p. 131</ref>、冬の間は船が同じ場所に留まるという前提だったため、陸上部隊の個人備品や燃料、機材の大半は船上に置かれたままであった<ref>Bickel, p. 71</ref>。
 
5月6日午後9時ごろ、激しい嵐が吹いていた中で、船上にあった隊員が「爆発音」を2回聞き<ref name="Tyler-Lewis_125–27" />、主となる太綱が錨から切れた。風の力に加えて急激に動く氷の力が働いた結果、オーロラ号は停泊地から切り離され、大きな氷盤に取り囲まれる格好で湾の中を漂い始めた。ステンハウスは、強風が弱まった間に蒸気機関の力で岸に戻すことができるかもしれないと考え、蒸気を上げるよう命令したが、エンジンは冬の修繕のために一部分解されており、即座に発動できなかった<ref name="Hadd51"/>。たとえエンジンを始動できたとしても、98馬力 (73 kW) のエンジンと1軸のスクリュー・プロペラでは、推力不足だった<ref>Bickel, p. 218</ref>。嵐の轟音のせいで、エバンス岬の小屋にいる科学者部隊は異変の音に気付いていなかった。船が流されてしまったことを知ったのは朝になってからだった<ref name="Hadd51">Haddelsey, pp. 51–52</ref>。
 
オーロラ号が漂流を始めたときには18人の乗組員が乗船しており、岸には10人が残された。エバンス岬の小屋には4人の科学者がいた。最初の補給所設置隊はマッキントッシュとジョイスを含む6人であり、このときハットポイントでエバンス岬まで海氷を渡るチャンスをうかがって待機していた<ref>ハットポイント隊がオーロラ号のいなくなったことを知ったのは、エバンス岬に到達した6月2日のことであった。マッキントッシュは、この知らせを「KOパンチ」だったと日記に残している。Tyler-Lewis, p. 129</ref>。
 
== 漂流 ==