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{{by|1988年}}は打撃こそ失速したものの、自己最高の盗塁阻止率.465を記録。同年の[[日米野球]]では、59回連続無失点を記録中であった[[オーレル・ハーシュハイザー]]から11月5日の第1戦([[東京ドーム]])で本塁打を放つ。{{by|1989年}}には[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から[[若菜嘉晴]]が移籍してきたが、正捕手の座を守った。同年10月1日の[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦([[平和台野球場|平和台球場]])で史上41人目の[[サイクル安打]]を達成。{{by|1990年}}4月25日の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]戦(東京ドーム)では[[柴田保光]]の[[ノーヒットノーラン]]をアシスト。
 
{{by|1993年}}シーズンには自身初タイトルの[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]と[[ゴールデングラブ賞]]を獲得したほか、[[金石昭人]]との[[最優秀バッテリー賞]]も受賞。同年のシーズンオフに「田村が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]するかもしれない」という噂が流れた読売ジャイアンツ[[長嶋茂雄]]監督からもラブコールを貰ったが<ref>{{Cite web|title=田村藤夫プロフィール |url= https://www.nikkansports.com/premium/people/detail.html?name=fujio-tamura=ニッカンスポーツ・プレミアム|accessdate=2023-1-5}}</ref>、年俸9000万・功労金2000万という条件で球団に残留。{{by|1995年}}は[[田口昌徳]]の台頭や、近鉄から移籍してきた[[山下和彦]]の活躍で9年ぶりに100試合を割る。それでも7月5日の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦(東京ドーム)では[[西崎幸広]]のノーヒットノーランをアシストしたが、同年のシーズンオフに日本ハムから戦力外通告を受け、金銭トレードで[[千葉ロッテマリーンズ]]へ移籍。
 
=== ロッテ時代 ===