「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」の版間の差分
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[[1805年]][[4月2日]]、[[フュン島]]の都市[[オーデンセ]]で、22歳の流れ者の靴職人の父と数歳年上の母親の家で生まれる。洗濯婦の母親は私生児として生まれ、文盲で、結婚前は貧困から売春もしたが、働き者で信心深い人だった<ref name=sato/>。一方、父親は「神は自分たちと同じ人間だ。悪魔は自分の胸の中にいる以外にない」などと発言するような合理的な考え方の人物だった<ref name=sato/>。彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。父親は[[ルズヴィ・ホルベア]]の喜劇や[[アラビアン・ナイト]]を大声で読み、ハンスのために人形劇の舞台を作ってくれ、ハンスは人形の洋服を作り、話を作っては楽しんだ<ref>“Hans Christian Andersen: Danish Writer and Citizen of the World”Sven Hakon Rossel、Rodopi, 1996, p210</ref>。1812年、父親は金と引き換えに、徴集命令のきた近所の農民の息子の代わりに2年間従軍したが、デンマークは1813年に財政破綻し、軍から支払われるはずの給金も得られなかった。精神を病んだ父親は絶望の中、[[1816年]]に亡くなった<ref group="注釈">父親はより高い将来を夢見て、1812年ナポレオン軍に入った。1814年まで戦地に赴任し、1816年に亡くなった。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 171ページ)</ref>。父方の祖父も発狂死しており、アンデルセンは自分もそうなるのではないかと生涯不安に感じていたという<ref name=sato>[https://www.gijodai.jp/library/file/kiyo2000/12sato.pdf アンデルセンの世界−21世紀へ伝えたい豊かな世界]佐藤義隆、岐阜女子大学紀要 第29号(2000. 3)</ref>。ハンスを可愛がってくれた父方祖母も病的な虚言癖を持っており、ハンスも平気で嘘をつく癖をもっていたが、その空想癖は作家としての創作力に役立った<ref name=sato/>。1818年には母親が再婚した。自分の進路を決めなければならなくなり、学校を中退する。織工の見習いをしていたが、15歳の時、彼は[[オペラ]]歌手になろうとし、[[1819年]][[コペンハーゲン]]に行った。
[[ファイル:Amaliegade 9 - Hans Christian Andersen.png|サムネイル|生涯の支援者だったヨナス・コリンの家の裏
最初の3年間は困窮を極めた。彼が創作する劇作や歌なども認められなかった。その後も挫折を繰り返し、[[デンマーク王立バレエ団]]のバレエ学校にも在籍していた。自慢だったソプラノボイスも声変りして夢破れたが、困窮の中出会った作曲家のクリストフ・ウェイゼ(Christoph Weyse)や[[王立劇場 (コペンハーゲン)]]のイタリア人歌手ジュゼッペ・シボーニ(Giuseppe Siboni)、詩人フレデリック・ヘーフ・グルベルグ(Frederik Høegh-Guldberg)らに可愛がられた<ref name=ws>[https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Andersen,_Hans_Christian 1911 Encyclopædia Britannica/Andersen, Hans Christian]Wikisouce</ref>。王立劇場の踊り子見習いとなり、同劇場の支配人だった{{仮リンク|ヨナス・コリン|en|Jonas Collin}}(Jonas Collin, 1776-1861)に寵愛され、デンマーク王の侍従であるコリンの口利きで王から学費援助を受け、大学にまで行くことが出来た。1822年には処女詩"Gjenfaerdet ved Palnatokes Grav"(パルナトケの墓の幽霊) を含む"Ungdoms Forsog"を筆名で上梓した<ref name=ws/><ref>[https://museum.odense.dk/en/knowledge/knowledge-hans-christian-andersen/about-hca- About Hans Christian Andersen]Odense City Museums</ref>。しかし、在学中の5年間(1822-1828年)は悲惨なものだった。文学的才能について学長から嘲笑されたりしたので、コリンは個人授業を受けさせた。1828年大学に入学し、文献学と哲学を学んだ。<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 172ページ</ref>。
[[1829年]]には、『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行──1828と1829における』<ref>''{{Lang|da|Fodreise fra Holmens Canal til Østpynten af Amager i Aarene 1828 og 1829}}''</ref>を自費で出版しドイツ語版も出るほどであった。1833年4月から翌1834年8月にかけて[[ヨーロッパ]]を旅行した。パリに滞在したのち、スイスの山村にこもって「アグネーテと人魚」を書き上げ祖国に送って出版する。好評は得られなかったが詩人にとっては画期をなした。秋からイタリアに移り各地を訪問。[[ローマ]]滞在中に『[[即興詩人]]』を書き始める。またローマで活動していたデンマークの彫刻家[[ベルテル・トルバルセン|トーヴァルセン]]と親交を結んだ。
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