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大学1年生の時、[[小選挙区制]]反対運動をきっかけに[[日本共産党]]に入党した。[[宮本顕治]]の長男・[[宮本太郎]]の[[家庭教師]]を務めていた。大学卒業後、党東京都委員会に就職、[[早稲田大学]]などの青年[[日本の学生運動|学生運動]]を担当。1982年(昭和57年)から[[日本共産党中央委員会]]で勤務した。
 
{{要出典範囲|[[伊里一智]]が1985年(昭和60年)の日本共産党第17回大会に際して、[[東京都]]大会で代表となり中央委員会への批判を公表した。[[日本共産党中央委員会議長]]を務めていた宮本顕治の辞任を要求し、減少していた共産党の党勢を「立て直そう」と提案する。これが所属の支部で可決され都大会の代議員として選出されるべく、東大大学院の他の支部にも働きかけ、6割の支持を得て可決された。これに対し、当時[[日本共産党中央委員会]]青年学生対策委員だった志位和夫は宮本顕治の直接の指示を受け、党の規律に背いて他の代議員に対し働きかけた分派活動と断定し伊里を1986年(昭和61年)に日本共産党から除名し追放した。志位はこの時に出した論文「変節者のあわれな末路」において伊里を徹底的に批判した<ref>『投降主義者の観念論史観』P.68(1986年日本共産党中央委員会著)</ref>。{{要出典範囲|この働きを認められ、宮本顕治による抜擢で1987年(昭和62年)の[[日本共産党第18回大会|第18回党大会]]で准中央委員に選出され、[[1988年]](昭和63年)に書記局員に任命される。|date=2022年6月}}
 
{{要出典範囲|1989年(平成元年)に党中央委員に昇格し(日本共産党規約によれば、中央委員に欠員が出た場合は[[日本共産党中央委員会#中央委員会総会|日本共産党中央委員会総会]]の決定で准中央委員を中央委員に昇格させることができる)|date=2022年6月}}、1990年([[日本共産党大会|第19回党大会]])で中央委員に再選され<ref>{{Cite journal|和書|title=大会で選出された新中央委員会|journal=[[前衛 (雑誌)|前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌]]|issue=596|publisher=日本共産党中央委員会|date=1990-09-20|pages=156 - 157|id={{NDLJP|2756029/80}}}}</ref>、第1回中央委員会総会で当時35歳の若さで党書記局長になる<ref>{{Cite journal|和書|title=日本共産党第19回大会特集--1990.7.9-7.13|journal=[[前衛 (雑誌)|前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌]]|issue=596|publisher=日本共産党中央委員会|date=1990-09-20|pages=1 - 8|id={{NDLJP|2756029/2}}}}</ref>。この時以降、党幹部として[[マスメディア]]に積極的に登場するようになった。