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*[[1860年]]、帰国し、アメリカで購入していた[[広東語]]と英語の対訳がついた単語集である『華英通語』の英語によみがなをつけて日本語訳をした『[http://opac.kufs.ac.jp/kufs/detail/0002_A/detail_0002_A-1.html 増訂華英通語]』を出版する。これは福澤が初めて出版した書物である。この書の中で福澤は、「V」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた「[[ヴ]]」や「ワ」に濁点をつけた文字を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。また、再び鉄砲洲で講義を行う。しかしその内容は従来のようなオランダ語ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳を行った。これら外国から日本に対する公文書には[[オランダ語]]の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強を行ったりもした。この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。同じ年の冬、竹内下野守を正使とする使節団を欧州各国へ派遣することとなり、福澤もこれに同行することとなった。その際に幕府から支給された支度金で英書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。例えば[[病院]]や[[銀行]]、[[郵便法]]、[[徴兵令]]、[[選挙制度]]、[[議会制度]]などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。帰国後、『[[西洋事情]]』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。一時は幕臣として幕府機構の改革を唱えた。また[[アメリカ独立宣言]]の全文を翻訳して『[[西洋事情]]』(初編 巻之二)中に「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=56000690&VOL_NUM=00002&KOMA=6&ITYPE=0 千七百七十六年第七月四日亞米利加十三州獨立ノ檄文]」として掲載して日本に伝えた。
===慶應義塾===
*[[1868年]](慶4年)には蘭学塾を'''慶應義塾'''と名付け、教育活動に専念する。維新後も洋学の普及を主唱、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。
*[[1880年]](明治13年)[[専修大学]](当時の[[専修学校]])の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供し、[[青雲の志]]に燃ゆる若き指導者に、大きな協力を惜しまなかった。
*[[1881年]](明治14年)の政変で政府要人と絶交。