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*[[1971年]](昭和46年)[[11月1日]] - 市制施行により座間市立座間第三小学校に校名変更。
*[[1973年]](昭和48年)[[4月1日]] - [[座間市立相模野小学校]] に校名変更。
*[[1974年]](昭和49年)[[11月1日]] - 現一[[丁目]]の[[大字]]座間[[小字|字]]元広野の鶴間街道以北・[[小字|字]]元広野久保全域・[[大字]][[相武台]]・[[大字]][[相模台]]の各一部、現二丁目の[[大字]]座間[[小字|字]]元広野の鶴間街道以南・[[大字]][[入谷 (座間市)|座間入谷]][[小字|字]]東長久保・[[小字|字]]長久保・[[小字|字]]長久保中通から広野台1・2丁目を新設。
*[[1999年]](平成11年)[[9月13日]] - [[住居表示]]実施<ref name="jukyo">{{Cite web|url=https://www.city.zama.kanagawa.jp/kurashi/sumai/hyouji/kuiki/1002591.html|title=広野台地区(平成11年9月13日施行)|publisher=座間市|accessdate=2023-08-16}}</ref>。
この地域は、'''座間宿村・[[入谷 (座間市)|座間入谷村]]の人々の所有地で'''、[[相模台]](現・[[相模が丘]])、[[小松原 (座間市)|小松原]]、[[ひばりが丘 (座間市)|ひばりが丘]]と一括りに広義には'''芝原(しばあら)'''と呼ばれ、狭義では'''広野(ひろの)と通称され秣場<ref>共同の草刈り場</ref>であり耕作地でもあった。'''[[座間市立相模野小学校|高座郡座間町立座間第三小学校]]が開校した[[1962年]](昭和37年)頃まで、江戸期から変わらず一面桑畑・麦畑・陸稲の栽培地で、'''旧地籍は現・一[[丁目]]が[[大字]]座間[[小字|字]]元広野の鶴間街道以北と[[神奈川県道50号座間大和線|座間街道]]以南・[[小字|字]]元広野久保の[[神奈川県道50号座間大和線|座間街道]]以南他全域・[[小字|字]]南広野一部、現・二丁目が[[大字]]座間[[小字|字]]元広野の鶴間街道以北南・[[大字]][[入谷 (座間市)|座間入谷]][[小字|字]]東長久保・[[小字|字]]長久保・[[小字|字]]長久保中通である。'''座間宿・座間入谷の本村から、皆一同毎日鍬を担ぎ弁当持参わらじ履きで、[[東京都道・神奈川県道51号町田厚木線|府中みち]](現・[[東京都道・神奈川県道51号町田厚木線|行幸道路]])、江戸街道(相武台前駅踏切渡り[[相模が丘]]に向かう道)、鶴間街道(相模野小学校下、江戸街道の小池窪から右方面座間街道イオンモールへ向かう道)を歩いて通いこの地を耕作した。
'''座間市内では人が住み着いたのが最も遅く'''、[[座間市立相模野小学校|町立座間第三小学校]]開校にともない、町役場は、この地を「第三小学校前」、或いは各[[小字|字]]を一括りに「元広野」と呼称しだした。程なくして'''宅地化が進み人口が急増し始めた[[1965年]](昭和40年)から[[1969年]](昭和44年)頃、各地から移住してきた新住民達が中心となって、この地を通称「広野台」として決め'''、新住民一同皆一致団結し必死で街づくりを始め、たゆまぬ努力と協力で新しい街を作り上げていった。
'''町内を縦貫する[[神奈川県道50号座間大和線|座間街道]]はただの農道であったが[[太平洋戦争|終戦]]直後[[GHQ]]により整備拡張され幹線道路となり当初は「行政道路」が通称であり'''、日産工場ができてからは「座間日産通り」と呼んでいて、知らぬ間に「座間街道」と呼ぶようになった。'''座間街道は現在の[[相武台団地]]入口の信号で[[東京都道・神奈川県道51号町田厚木線|行幸道路]]までで突き当り。その先の[[神奈川県道507号相武台相模原線|村富線]]は[[相武台団地]]竣工時までなかった。'''現在の相武台団地入口信号両脇には多目的遊技場相武台ボウル(ボウリング場)と[[小佐野賢治]]創業の[[国際興業]]が経営する米軍大型バスの洗車場があった。相武台ボウル隣には道一本挟んで現在マンションになっている場所に、'''米兵家族専用アパートメント「座間コート」'''<ref>'''[[1956年]]([[昭和]]31年)年竣工。広野台で一番最初の住民と住居。'''<今のダイエー相武台店と道一本挟んだロイヤルホストの間にマンションが建っている所。></ref>もあった。相武台ボウルはボウリングブーム終焉とベトナム戦争終戦後その役目を終え、スーパー忠実屋~ディスカウントストア・サンエムとなりその後パチンコ店になり漏電による火災で全焼し現在のダイエー相武台店になった。'''町内を流れる[[目久尻川]]の源流は、大字[[栗原]][[小字|字]]小池谷の白髪弁財天が通説となっているが、そうではなく、[[東京都道・神奈川県道51号町田厚木線|行幸道路]]に面する、旧[[大字]]座間[[小字|字]]上小池と[[小字|字]]元広野久保の境、現・広野台一丁目1番にあるロイヤルホストの公道を抜けた[[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]][[相武台]]三丁目と[[相武台団地]]の一番低い窪地にある遊水地付近が元々の源流であり'''、ある著名な地層学と日本史学の権威学者が調査したところによると古代の目久尻川源流は[[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]][[東大沼]]の大沼神社付近が源流であると言った文献も存在する。