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顕家の死後、6月21日に[[日野資朝]]の娘である妻は河内国[[観心寺]]で尼となり、その菩提を弔い続けた。閏7月26日に弟の[[北畠顕信]]は南朝方によって鎮守府将軍に任命され、9月に[[伊勢国|伊勢]][[国司]]の[[北畠顕能]]を残し、義良親王を奉じて親房らとともに陸奥へ向かった。だが、船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、北朝方と戦った([[常陸合戦 (南北朝時代)|常陸合戦]])。しかし、興国4年/康永2年([[1343年]])11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。
 
一方、伊勢に戻った顕信は翌年に再び陸奥へと向かい、顕家が拠点としていた霊山城を中心に活動した。だが、[[正平 (日本)|正平]]2年/[[貞和]]3年([[1347年]])霊山城が落城するなど、南朝勢力は次第に逼迫していく。[[観応の擾乱]]によって起こった北朝側奥州管領の対立に乗じて[[多賀城|多賀国府]]を一時占拠するものの翌年には奪いされ、南朝勢力の回復には至らなかった。
 
嫡男である[[北畠顕成|顕成]]は、顕家の子ということもあって南朝からは相当厚遇されたとされるが、出家して『太平記』の一部を執筆・校閲をしたとも、奥州にとどまり[[浪岡北畠氏]]の祖となった{{efn|浪岡氏については、顕家の弟[[北畠顕信|顕信]]の孫にあたる[[北畠親能]]の子孫とする説など諸説ある。}}とも、九州に下向して懐良親王に従軍したとも<ref>『北畠准后伝』・『南朝編年記略』</ref>され、事跡が明確でない。一方、次男である[[北畠師顕|師顕]]の系統は[[時岡氏]]となったという。
 
[[文化 (元号)|文化]]14年([[1817年]])、[[松平定信]]が顕家慰霊するために霊山に霊山碑を建てた。
 
[[File:Abeno-jinja-haiden1.jpg|thumb|right|250px|顕家が祀られている[[阿部野神社]]]]