「大日本プロレス」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
37行目:
草創期のデスマッチアイテムとしては[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]などでも行われていた[[有刺鉄線]](設立当初、大日本では「バラ線」と称していた)がメインであったが、元[[W★INGプロモーション]]所属選手の[[ミスター・ポーゴ|グレート・ポーゴ]]、[[松永光弘]]、[[中牧昭二]]などが参戦する様になってからは過激なデスマッチ路線に拍車がかかり、中牧が所属以前に主戦場としていたI.W.A.JAPANで頻繁に行われていた画鋲やガラスを使用したデスマッチや、松永が考案したサボテン、サソリ、ワニなどを使用した奇抜なデスマッチにファンの注目が集まった。また、若手選手の中から山川や小林、さらにI.W.A.JAPANから移籍した[[シャドウWX|志賀悟]]などがデスマッチ路線に投じ、後に中心選手として活躍する素地を築いたと言える。また、社長の小鹿も当時50代後半に差し掛かりながら現役選手としてもデスマッチに出場し、出場時の様々なコスプレも話題になった。
[[1996年]]には後述する[[新日本プロレス]]との抗争が勃発し、[[1997年]]1月4日の新日本の[[東京ドーム]]大会では小鹿を筆頭に5名が出場したがそれ以上の進展はなかった。話題作りの一環として7月にはクマの招聘を計画していたものの、動物愛護団体の反発により、頓挫するなど試行錯誤が続いたが、最終的にはデスマッチ路線に再び活路を見出すことになった。この間に中心選手であったナガサキや中牧が大日本を離脱して、デスマッチ路線の陣容は松永、山川、小林、WXらが中心に変わり、新たにデビューした[[本間朋晃]]や[[葛西純]]が参入し、さらにアメリカの
[[1999年]]からは「[[大日本最侠タッグリーグ戦]]」を開催。[[2003年]]を最後に1度休止となるが[[2009年]]に復活。
309行目:
== 所属選手 ==
所属選手は「'''[[デスマッチ]]BJ(D)'''」・「'''[[ストロングスタイル|ストロング]]BJ(S)'''」・「'''ストロングJ(J)'''<ref group="注">「ストロングJ」の体重制限は95kg未満。</ref>」の3ブロックに分類されているが、ストロングルールでの試合には全員出場しており、大日本において中間ルールに当たる「'''[[ハードコア・レスリング|ハードコアマッチ]](H)'''」も試合によってはほぼ全員が出場している。
; デスマッチBJ
* [[アブドーラ・小林]]
|