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== 経歴 ==
[[ファイル:Kou Mizushina 1910s.jpg|サムネイル|左:旧制中学校卒業前の水品]]
[[1895年]](明治28年)10月1日、[[神奈川県]][[横須賀市]]に生まれる。父は[[海軍省]][[横須賀鎮守府]]の書記官で、生後間もなく[[京都府|京都]]の[[舞鶴鎮守府]]へ転勤する。一時は海軍士官に憧れるも近視のため断念した。少年期より海外生活に憧れを持っていたため、外交官を目指していた時期もあった。その後、京都府立第四中学校(
1915年、アメリカ合衆国への輸出業を主としていた[[森村商事|森村組]]の横浜出張所に就職。直後に発足した森村商事の輸入部門に勤務し、夜学で好きな英語を学んだ{{sfn|ダイヤモンド社|1967|pp=23-27}}。
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1924年5月頃、加藤は日本で検討を重ねた上でパンチカードシステムの導入を決定し、森村ブラザースにIBM([[ハーマン・ホレリス|ホレリス]]式)とパワーズの両機種を研究するよう依頼した。中山はこの調査を水品に担当させた。水品は見本市を見学して比較研究をし、また、森村ブラザースの信用部を通して信用調査を行った結果、IBMの機械を薦めることにした<ref name=":4">{{Cite journal|和書|last=高橋|first=松三郎|year=1961|title=日本における事務機械化の50年(3)|journal=事務と経営|volume=13|issue=145|pages=37-39}}</ref>。
1924年9月<ref name=":4" />、水品はIBMと交渉するも、IBMはレンタル方式による顧客サービスにこだわりを持っており、「日本では代理店がなく保守ができない。」という理由で取引を断られる。電気や機械の知識がなかった水品は、自ら技術を習得して保守を手がけることを決意。日本陶器と森村ブラザースに待つよう説得した上でIBMと交渉し、10月頃から[[エンディコット (ニューヨーク州)|エンディコット]]にあるIBMの工場で特別実習生として保守技術員の教育を受けることになった{{sfn|ダイヤモンド社|1967|pp=28-36}}。[[ファイル:IBM tabulating machine in Nippon Toki 1925.jpg|サムネイル|1925年に[[ノリタケカンパニーリミテド|日本陶器]]へ納入された最初のIBM製[[パンチカードシステム]](左から3人目が水品
その後は[[三菱造船]]に2台納入されたのみで、パンチカードシステムは高価なためレンタル事業はなかなか軌道に乗らなかった<ref name=":0" />。競合メーカーのレミントンランドの代理店になった[[三井物産]]は資本が豊富であったことに加え、日本ではレミントンランド製品を輸入販売で扱ったため、官公庁では手続き上レンタルのIBM製品より扱いやすかったこともIBMが遠ざけられた原因になった<ref>{{Cite journal|和書|last=境谷|first=保|year=1938|title=ホレリス式機械と生命保險會社の統計事務(二)|journal=生命保険経営|volume=10|issue=3|page=52}}</ref>。さらに、森村組は日本製品の輸出による外貨獲得で日本に貢献することをモットーとしており、内部にIBMの商品を扱うことに反対する意見があった<ref name=":5" />。
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1934年、アメリカの生命保険業界で [[IBM 405]] 統計会計機の人気が高まり、その評判が日本へ波及して[[日本生命]]と帝国生命(後の[[朝日生命保険]])が IBM 405 を採用した<ref name=":0" />。
[[ファイル:IBM Japan office 1938.jpg|サムネイル|日本ワットソン統計会計機械の[[山下町 (横浜市)|山下町]]本社(1938年)]]
1937年、[[IBM]]が資本金50万円を事実上全額出資し、日本法人として'''日本ワットソン統計会計機械株式会社'''(社長は非常勤で[[渋沢智雄]])を設立。水品はその営業部長、IBM本社から派遣されたチャールズ・M・デッカー(後の日本IBM初代社長)が機械部門担当になる。
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水品はほとんど取り調べされないまま3か月後に釈放。さらに2か月後に外出禁止が解除されるが、すぐに国策会社に戻る訳にもいかず、浪人生活となる。戦中、水品は友人の誘いで第二海軍航空省へ向かい、[[神戸製鋼所]]鳥羽工場で[[アメリカ海軍]]から接収した IBM 405 の復元を担当した。また、戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]組織の横浜QM(需品部)で技術者として働いた<ref name=":0" />。
[[ファイル:IBM Japan employees at Kanda-Tsukasamachi 1950.jpg|サムネイル|日本アイ・ビー・エム神田司町本社(1950年)]]
1946年、GHQから「連合国財産の返還等に関する政令」が出されると、日本統計機の社員であった[[稲垣早苗]](1962年より日本IBM社長)がIBM本社に対して「機械も人も1941年12月8日以前の状態に戻すべき」と提案。再建に向けた準備が進む。1949年6月、日本ワットソン統計会計機械の財産と営業権が返還されると、水品が常務取締役として復帰(社長はIBM本社のチャールズ・M・デッカー)。当時の社員数は66人<ref name=":0" />。 1950年4月、商号が'''日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ株式会社'''に変更される。
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