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== 経歴 ==
大阪府立箕面高校在学中よりプロレスラーを志し、1983年新日本プロレスの入門テストを受けて合格した。
中学3年生の時に関東相撲大会に出場して3位に入った。同大会では、後の[[横綱]]でもある[[貴乃花光司|貴乃花]](花田光司)と対戦している。
 
1984年4月10日、佐原市民体育館における佐野直喜戦でデビュー。
高校3年生([[足利大学附属高等学校|足利工業大学附属高等学校]])の時に[[全国高等学校総合体育大会]]で行われたレスリングに出場してベスト8に入る。
 
1987年、佐野直樹とともにメキシコに遠征。浅井嘉浩(現ウルティモ・ドラゴン)と合流し、オリエンタル・トリオとして活躍した。
[[1994年]]、大学4年生([[日本大学]])の時に[[国民体育大会]]で行われたレスリングフリースタイル82kg級で2位に入る。
 
1989年、凱旋帰国したが、1990年に引退。
[[1995年]]6月、[[レッスル夢ファクトリー]]に入門。
 
2007年、ウルティモ・ドラゴン引退興行に姿を見せた。
[[1996年]][[3月20日]]、レッスル夢ファクトリー[[後楽園ホール]]大会で[[仲野信市]]とタッグを組んで対婆沙羅&ザ・ウルフ組戦でデビュー。
 
2023年、佐野が経営する京都の焼肉店に来店している。
10月、[[KAMIKAZE (プロレスラー)|神風]]とタッグチーム「足利エクスプレス」を結成。
 
[[1997年]]7月、仲野の推薦のもと[[無我]]に参戦。
 
11月、[[WAR (プロレス)|WAR]]に参戦。
 
[[1998年]]5月から6月、[[新日本プロレス]]で開催された「[[BEST OF THE SUPER Jr.]]」に出場。
 
[[1999年]]1月、[[藤波辰爾]]の推薦を受けて新日本プロレスに移籍。
 
[[2000年]][[4月7日]]、新日本プロレス[[東京ドーム]]大会のメインイベントで行われた[[橋本真也]]対[[小川直也]]戦で、福田は橋本のセコンドについて試合を見つめたが、橋本の敗戦後は涙を流す福田の姿がテレビに映された。当日、橋本と福田は2人でファミリーレストランで夕食を共にして福田は、「橋本さん、悔しいすね」と大泣きしたという。4月、[[永田裕志]]、[[中西学]]、[[吉江豊]]と共にユニット「[[G-EGGS]]」を結成する。しかし[[4月14日]]、福田は新日本プロレス気仙沼市総合体育館大会で開催された[[ヤングライオン杯]]初戦の試合中、[[柴田勝頼]]の[[エルボー・バット#フライング・エルボー|フライングエルボー]]を受けて頭部を強打し、試合終了後に意識不明の重体に陥り病院に緊急入院した。[[4月19日]]、福田は[[急性硬膜下血腫]]により死去した。{{没年齢|1972|5|17|2000|4|19}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/1787835.html?mode=all|title=2009年ノアの三沢光晴ら/主なリングでの事故|publisher=日刊スポーツ|date=2017-03-05|accessdate=2023-07-14}}</ref>。試合中の事故で死亡した福田の最期を巡業中だった新日本プロレスのレスラーの中で唯一、それを看取った橋本は、「最後は脳死状態になっちゃって…。右脳が潰れ、左脳が潰れ、延髄まで至って…。でも脈は動いてて。あいつは血の一滴になるまで戦った。」と語り、号泣した。
福田は1999年10月のシリーズで[[硬膜下血腫]]のため約4ヶ月間も欠場をしており、[[後遺症]]の影響も示唆されている。福田の事故は当時のプロレス界に大きな衝撃を与えており、特に小川戦後の去就が注目されていた橋本にも相当なショックを与えたという。
 
[[7月30日]]、[[長州力]]が新日本プロレス[[横浜アリーナ]]大会での対[[大仁田厚]]戦で現役復帰した入場の際、福田の遺影を脇に抱えていたことから、福田の死が長州の心を動かしたことが窺える。
 
[[9月9日]]、新日本プロレス黒羽町民体育館大会で「故・福田雅一追悼試合」が開催された。