「日本大学硬式野球部」の版間の差分
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しかし、これを最後に長らく3度の2部落ちや部史上初の2部最下位(1988年春。のちの2010年春にも2部最下位)になるなど低迷期が続いた。入替戦では、1974年秋、[[国士舘大学硬式野球部|国士舘大]]に敗れ2部降格。翌1975年春、国士大に勝ち1部昇格。1977年春、国士大に敗れ2部降格。1981年秋、国士大に勝ち1部昇格。1986年春、[[東京農業大学硬式野球部|東農大]]に敗れ2部降格と続いた。75年秋には[[駒澤大学硬式野球部|駒澤大]]に次ぐ1部リーグ2位となり[[第6回明治神宮野球大会]]に出場したが、初戦で[[日本体育大学硬式野球部|日体大]]に惜敗した。
この間、[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて、投手陣では[[木村広]](3年次に硬式に転向)、[[佐藤義則]](通算22勝21敗、77年卒)、[[石川賢 (1960年生の投手)|石川賢]]、[[石井宏 (野球)|石井宏]](通算19勝22敗、86年卒)らの好投手、
[[1989年]]秋、2年生[[落合英二]]の力投で[[国学院大学硬式野球部|國學院大]]を下し1部に復帰。その後の入替戦でも1部残留を死守。続く[[門奈哲寛]]投手(通算14勝11敗、93年卒)、[[真中満]]らを擁した[[1992年]]秋、21年ぶりとなる1971秋以来42シーズンぶり20回目の優勝([[和泉貴樹]]監督、第10代)をして復活の機運が高まった。しかし、[[1995年]]秋に3年[[戸部浩]](通算6勝12敗、97年卒)や2年[[清水直行]]らの投手陣を擁するも最下位となり、入替戦で4年[[小林幹英]]と3年[[黒田博樹]]両投手擁する専大に敗れ5度目の2部転落。翌[[1996年]]、[[日本大学藤沢高等学校・中学校|日大藤沢高]]から鈴木博識監督(第11代)が招かれ指揮を執った。
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[[1997年]]秋、2年生[[吉野誠]]投手(通算14勝15敗、00年卒)の力投で[[東洋大学硬式野球部|東洋大]]を下し1部に復帰。
[[2001年]]春、[[館山昌平]](通算8勝6敗、03年卒)と[[堤内健]](通算5勝11敗、03年卒)両投手と[[大野隆治]]のバッテリー、打撃陣では[[村田修一]]ら4年生の投打を擁し21回目のリーグ優勝を遂げる。続く第50回全日本大学選手権準決勝で[[立命館大学硬式野球部|立命大]]を4-2で下し、決勝で、[[法政大学野球部|法政大]]を8-2で下し勝ち上がってきた東海大に0-2で敗れ準優勝に留まる。[[2004年]]春、[[那須野巧]](通算22勝10敗、05年卒)や服部泰卓(通算11勝7敗、05年卒)、3年畠山太(通算11勝5敗、06年卒)らの投手陣や、打撃陣では[[桑原義行]]らを擁し22回目の優勝を飾る。第53回全日本大学選手権準々決勝で立命大を9-0(7回コールド)、準決勝で[[八戸学院大学硬式野球部|八戸大]]を6-2で下し、決勝で、[[一場靖弘]]投手擁する明治大を5-3で下し勝ち上がってきた[[東北福祉大学硬式野球部|東北福祉大]]に1-3で敗れ、またしても準優勝に留まる。
[[2006年]]秋、4年[[長野久義]]や3年[[篠田純平]]投手(1部リーグ通算2勝3敗、08年卒)を擁するも、入替戦で[[長谷川勇也]]と[[松本哲也]]擁する専修大に敗れまたしても2部転落。翌[[2007年]]秋に入替戦で國學院大を下し1部に昇格したものの翌[[2008年]]、4年服部大輔投手(通算8勝13敗、09年卒)らが活躍するも秋に最下位となり入替戦で國學院大に敗れ通算7度目の2部転落となった。さらに翌[[2009年]]春には国士大などと2部で最下位争いを展開するなど低迷の責任をとって鈴木監督が辞任。[[衣川隆夫]]監督代行を経て同09年秋から仲村恒一監督(第12代)が指揮を執る。
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