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; 準校歌『あゝ立教の旗の下』
: [[1941年]](昭和16年)、従来の上記校歌『栄光の立教』がメロディーがその優雅さの故にか、野外、特に神宮外苑等では調子が弱く、かつ学生の士気にも関係するという説もあることから、活発明朗な校歌の誕生が強く要望され、立教大学学友会で校歌の募集を行うこととなった。これにより従来の『栄光の立教』が廃止される訳ではなく、今後は両校歌を適宜併用することとした<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/41(S16)0210_006.pdf 『立教学院学報 第6号』] 1941年(昭和16年)2月10日</ref>。応募の結果、[[武藤重勝]](立教大学図書館員)の作詞した校歌が選ばれた。武藤は、寮歌『荊道遠くたどり来て』の作詞者でもあり、準校歌当選時の抱負として、私は詩作を始めてから10年となり、学校に近代的で新鮮な優秀な詩を残したいということはかねてからの希望であったことから、準校歌を書いたことを嬉しいと語った。作品は近代的行進曲に準じるとともに、格調技巧音感等にも苦労して書いたが、技巧は自作の中でも自信のあるものとなったといい、歌詞は立教学院学報第7号(1941年5月6日)に現存する。作曲についても作詞同様に募集され、武藤は作曲も優秀なものを望み、さらに今後立教の学生からもっと優秀な作品を生ませたいと語った<ref name="rikkyogakuin_news_007">[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/41(S16)0506_007.pdf 『立教学院学報 第7号』] 1941年(昭和16年)5月6日</ref>。
: この準校歌は現在、存在が忘れられ歌われていないが、歌詞にある『あゝ立教の旗の下』の言葉は、戦後
: こうした準校歌など複数の校歌がある例は他の学校にもあるが、校歌が制定されていない[[東京大学]]では、運動会歌の『大空と』や、応援歌の『ただ一つ』が校歌の代わりとして演奏・斉唱されるなどの例もみられる{{#tag:ref|東京大学では2024年には新応援歌『美しく夜は明けて』も生まれている<ref>東京大学運動会応援部 [https://www.todai-ouen.com/activity/song.html 『応援歌紹介』]</ref>。|group="注釈"}}。
; 戦時中の別の準校歌
: [[1942年]](昭和17年)には、校歌『栄光の立教』の「自由の学府」の文言が問題視され斉唱禁止となり、同年12月10日には、戦時下の状況が反映された準校歌(作詞:[[尾崎喜八]]、作曲:[[小松平五郎]])が制定された<ref name="ozaki"/>。第二応援歌の『St.Paul's will shine tonight』も敵性語であるとして斉唱禁止となった<ref name="rikkyo_shinbun_205"/>。戦後となり、この準校歌は制定を解除され、再び校歌『栄光の立教』を斉唱できるようになった。
==== 寮歌 ====
; 『荊道遠くたどり来て/棘路(いばらじ)とおくたどり来て』<ref>立教大学体育会水泳部 [https://www.rikkyo.ne.jp/sgrp/swim/song3.html 『立教大学寮歌』]</ref>
: 作詞:[[武藤重勝]]<ref name="rikkyogakuin_news_007"/>。近年では体育会応援団により団祭でたまに披露される程度で普段は披露されず、一般学生からは忘れ去られ歌唱されることがない曲であるが、名曲として知られる<ref>立教大学体育会応援団 [https://www2.rikkyo.ac.jp/sgrp/spsports/mail/131218.html 『1年の集大成 団祭「十字の下に」』] 2013年12月18日</ref><ref>サモジロー [https://ameblo.jp/samocronin/entry-12602431946.html 『歌い継がれる大学の歌 立大編』] 2020年6月7日</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=久保田 順 |title=井上周八教授の人と学問 |journal=立教經濟學研究 |publisher=立教大学経済学部・経済学研究科 |year=1990-01 |volume=44 |issue=2 |pages=229-233 |url=https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/2219}}</ref>。
==== 留別歌『懐かしの立教』 ====
[[1925年]](大正14年)3月に、立教大学が1922年(大正11年)に[[大学令]]により再び大学となった後の第一期卒業式が予定された際、そこで合唱する大学留別歌(別離歌、卒業式歌)が必要とされ、前月の[[1925年]]2月5日付の立教大学新聞第11号にて中村恭二郎の試作による別離歌(卒業式歌)『…踏花共惜少年春…』が掲載された<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0205_011.pdf 『立教大学新聞 第11号』] 1925年(大正14年)2月5日</ref>。そうした中、1925年(大正14年)3月21日に第一期卒業式が行われたが、式の終わりに、作られた大学留別歌『懐かしの立教』が合唱され閉会した。式では、先ず[[君が代]]が歌われ、[[杉浦貞二郎]]学長による式辞と卒業証書授与、[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|ライフスナイダー]]総長と[[岡田良平]]文部大臣の祝辞、前学長[[元田作之進]]博士の来賓演説、在校生総代による英語による送別の辞、在校生の謝辞があり、最後に留別歌が歌われた。その後、夜には上野精養軒にて晩餐会が開催された<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/25(T14)0405_014.pdf 『立教大学新聞 第14号』] 1925年(大正14年)4月5日</ref>。<br />
[[1930年]](昭和5年)3月25日に行われた卒業式でも、ウッド博士らの祝辞のほか、[[井上準之助]]大蔵大臣、[[ウィリアム・リチャーズ・キャッスル]]駐日米国大使、[[ジョン・ティリー]]駐日英国大使の来賓演説等のあと、最後に大学留別歌で式が閉会している{{#tag:ref|当時の立教大学新聞の記事タイトルには「盛大だった卒業式 蔵相、米大使の顔も見れて」とあるが、記事内で米国大使はチレーとなっている。しかし、当時の米国大使は[[ウィリアム・リチャーズ・キャッスル]]が正しく、記事内のチレー(ティリー)は実際には英国大使が正しい<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/30(S05)0415_087.pdf 『立教大学新聞 第87号』] 1930年(昭和5年)4月15日</ref>。|group="注釈"}}。現在、留別歌は存在が忘れられて歌われていない。
==== 応援歌 ====
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